<皇孫系氏族>景行天皇後裔

SN01:紗抜大押 星 〔景行天皇後裔〕紗抜大押 星 ― 讃岐千継 SN02:讃岐千継

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讃岐千継 讃岐永直

 讃岐国寒川郡の人。延暦10年(791年)以下を言上して許され、凡直から讃岐公に改姓した。
 千継らの先祖は星直といい、敏達朝において国造の職務を継いでこの地域を管轄した。そこで官名に因んで「紗抜大押」直の氏姓を賜った。ところが、天智天皇9年(670年)の戸籍(庚午年籍)では「大押」の字を改めて「凡」と記された。これにより星直の後裔はある者は「讃岐直」を、ある者は「凡直」の氏姓を名乗った。そこで先祖の職務に因んで「讃岐公」の氏姓を賜りたい。
 その後、従五位下・大判事に叙任され、桓武朝末の延暦24年(805年)備前権介を兼ねると共に、山城国乙訓郡の白田1町を与えられている。
 平城朝の大同3年(808年)従五位上・刑部少輔に叙任された。

 平安時代初期までは讃岐国寒川郡の郡司を務めていたが、平城朝以降に永直の祖父・広直および父・浄直と続いて明法博士に任ぜられた。祖父や父に続いて永直も明法家の道を歩み、幼い頃から大学寮で学び律令を好んで読んだ。非常に聡明で、一度聞いたことは暗誦してしまったという。
 嵯峨朝の弘仁6年(815年)明法得業生兼但馬権博士に任ぜられると、数年後に明法試に及第する。淳和朝の天長7年(830年)明法博士に任ぜられると、左/右少史・勘解由判官も務めた。
 仁明朝初頭の承和元年(834年)外従五位下・大判事に叙任。承和3年(836年)に弟の右少史・讃岐永成や従兄弟の讃岐当世らと共に公姓から朝臣姓に改姓する。仁明朝では大判事を務める一方で、勘解由次官・出雲權介・阿波権掾などを兼ね、承和13年(846年)に発生した善愷訴訟事件の裁断にあたっては、明法道の権威として中心的な役割を果たした。
 だが、嘉祥元年(848年)に親族である和気斉之の犯罪(大不敬)に連座して土佐国(または佐渡国)への流罪となった。2年後の嘉祥3年(850年)仁明天皇が重態に陥る中で行われた恩赦により帰京を許されて、仁寿3年(853年)本位(外従五位下)に復し、再び明法博士・大判事を歴任、清和朝の貞観元年(859年)には77歳で内位の従五位下に叙せられた。
 貞観4年(862年)8月に卒去。享年80。『令義解』の編者の一人ともされる。

和気高作 和気時雄

 承和14年(847年)外従五位下に叙せられ、仁明朝末の嘉祥3年(850年) 内位の従五位下となる。斉衡2年(855年)伯耆守と文徳朝後半は地方官を務めた。
 清和朝に入り、貞観5年(863年)従五位上に昇叙され、翌貞観6年(864年)一族の右大史・讃岐時雄及び右衛門少志・讃岐時人らと共に讃岐朝臣から和気朝臣に改姓した。貞観7年(865年)図書頭に任ぜられている。

 左少史在職中の貞観2年(860年)京師および諸国にて仁王経が講じられた際、行事の司を務める。右大史を経て、貞観6年(864年)讃岐朝臣から和気朝臣に改姓する。のち左大史に転じ、貞観9年(867年)外従五位下・豊前権介に叙任される。その後、山城権介を経て、貞観11年(869年)大和権介に任ぜられ、翌貞観12年(870年)大和介に昇格するなど、清和朝中盤は地方官を歴任している。