清和源氏

G506:屋代満照  源 経基 ― 源 頼信 ― 村上頼清 ― 村上為国 ― 村上安信 ― 屋代満照 ― 室賀宗国 G507:室賀宗国

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室賀宗国 室賀信俊
 室賀氏は北信濃の国衆で、清和源氏頼清流の系統である村上氏の一門屋代氏の支族であり、惣領家の村上義清に従っていた  1553年(天文22年)、村上義清が甲斐国の武田晴信に敗れて越後国の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ奔ると、そのまま晴信に降るとともに晴信より「信」の字を賜り、それまでの経俊から信俊へ改名した。以後は1561年(永禄4年)の川中島の戦いを始め、各地を転戦した。家督を一族の屋代正重の子・満正(一葉斎禅松)に譲って隠居した後、1575年(天正3年)に没した。
室賀満正 室賀満俊

 村上氏当主の村上義清が甲斐の武田晴信に敗れ、越後に逃れると室賀氏先代当主・信俊と満正の実兄で屋代氏当主・屋代正国は武田氏に従属した。
 天正10年(1582年)3月、武田氏が滅亡すると被官の滝沢八兵衛が去就に迷い、室賀家中からの退身の動きを見せた。満正はこれを留める為に八兵衛に新たに100貫文の所領を与える配慮を示したが、直後の4月に満正は急死する。家督が嫡男の兵部太夫正武が相続したが、八兵衛はその後室賀氏に出仕せず他家に仕えた。

 甲斐国の武田勝頼の家臣だったが、天正10年(1582年)の甲州征伐により武田氏が滅んだ後、兄の正武が真田昌幸に謀殺されると徳川家康の下へ降った。天正12年(1584年)上杉氏から徳川方へ鞍替えした兄・屋代秀正とともに上杉景勝と戦い、功があったという。天正13年(1585年)秀正とともに虚空蔵山城に入って上杉軍と戦ってこれを撃退した。その後も徳川氏に仕え、慶長19年(1614年)から始まった大坂の陣には冬夏双方に出陣した。元和7年(1621年)には徳川家光の槍奉行となった。没後の家督は秀正の次男・正俊が継承した。
室賀正武 室賀久太夫

 天正10年2月に開始された織田信長らによる甲州征伐の際には、屋代秀正と共に駿河丸子城を守備していたが、戦況の悪化を受けて自落し逃亡したらしい。3月の武田氏の滅亡後、小県郡の室賀氏や屋代氏は信濃川中島四郡を与えられた織田家臣・森長可に臣従していたと考えられている。同年4月には、越後国の上杉景勝に属した芋川親正が芋川一揆を起こし、正武は長可とともにこれを平定している。同年6月には本能寺の変により武田遺領の甲斐,信濃を巡る天正壬午の乱が発生し、武田遺臣の真田昌幸らが相模国の北条氏直に属すなか、正武は別行動を取っていたと考えられている。
 『加沢記』によると、天正11年(1583年)に「室賀殿」が徳川家康によって他の信濃豪族とともに所領の安堵状を受けている。同年、真田昌幸が所領を拡大しようとした際、室賀氏は真っ先に標的になったとされている。正武は守戦で自ら出撃して奮戦したが、間もなく真田氏と和睦した。だが真田氏の麾下に入った事は不本意であったとされ、天正12年(1584年)家臣の鳥井彦右衛門尉を家康の元へ使いに出すと、家康より昌幸を謀殺すべしとの指示を受けたという。間もなく昌幸より居城・上田城に招かれたため、正武は一門の室賀孫右衛門を徳川氏の家臣・鳥居元忠の元へと派遣して援軍を要請した。だが孫右衛門は既に昌幸に内通していた。正武は桑名八之助,相沢五左衛門尉,堀田久兵衛らの家臣を引き連れて上田城を訪れた。正武は書院に通されたが、次の間に控えていた真田家臣・長野舎人と木村渡右衛門に急襲され、その場で斬殺された。正武が連れていた家臣たちも抵抗するが捕えられて、のち真田氏に仕えた。昌幸は家康を刺激しないように正武の妻子の命は助け、上杉氏に引渡した。また室賀一族は甲斐国や尾張国に落ちて行ったという。。

 天正12年(1584年)7月に父正武が真田昌幸に暗殺された後は、出家し永寿と号して善光寺に入っていたが、直江兼続の招聘により還俗して上杉景勝に仕えた。
 その後上杉家を致仕し、尾張へ移り松平忠吉に仕えたが、ここもまた致仕し、父正武が暗殺された際、真田昌幸に通じていた室賀源助を討つために信濃へ戻る。室賀源助を討ち果たした後は再び尾張へ戻り、徳川義直に500石で仕える。
 名古屋城が築城された際には、名古屋城二の丸の初代親衛隊長となって、藩主3代に仕えている。豊臣氏を滅ぼした大坂の陣では、尾張徳川家の御使番(参謀)として記録が残っている。
 寛永10年(1633年)300石加増の上、黒門足軽頭に任ぜられ、以降も代々尾張徳川家に仕えた。
 このほか、徳川家康によって尾張の地に派遣され、尾張を家康の所領とするために工作した。名古屋市天白区植田の地に、1580年に植田八幡宮を修造したなどの逸話も残る。