平安時代末期の武士。信濃国更級郡村上郷を本領として京都に寄宿していた。高陽院(藤原泰子)判官代に任じられ、村上判官代と称した。保元の乱の際は父とともに崇徳上皇方に加わり、その後は八条院蔵人に補任されたらしい。寿永2年(1183年)平家を負って上洛した木曾義仲に従ったが、その後離脱した。義仲滅亡後、源頼朝の代官である源範頼の軍に属して平家追討に参加した。 文治4年(1188年)3月鶴岡八幡宮大般若経供養の際、布衣で頼朝に供奉したのをはじめ、建久元年(1190年)11月の上洛や、建久2年2月の二所参詣、建久3年11月の永福寺供養、建久6年5月の天王寺参詣の際、頼朝に随行している。基国の鎌倉での屋敷は小町大路近辺にあったが、建久2年3月4日に焼失した。
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元親は児玉元良の次男として生まれたが、飯田広親の養子となって飯田氏を相続する。 永正13年(1516年)、大内義興の命を受けた毛利興元に従い、武田元繁の山県郡有田城攻めで軍功を挙げる。大永3年(1523年)、毛利元就の家督相続の際に、15人の宿老の一人として連署状に署名した。 天文4年(1535年)に死去。嫡男の元祐は幼少であったため、家督は弟の元重が継いだ。
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天文4年(1535年)に兄・元親が死去したため、元重が飯田氏の家督を継いだ。なお、元親や元重が相続した飯田氏は、同じく毛利氏家臣で毛利水軍を率いた飯田義武の飯田氏とは別家系とされる。 天文9年(1540年)から天文10年(1541年)にかけての吉田郡山城の戦いでは、天文10年1月13日の宮崎長尾の戦いにおいて敵陣を切り崩して敵を討ち取る武功を挙げ、元就から感状を与えられた。天文11年(1542年)1月24日に毛利隆元から「与一左衛門尉」の官途名を与えられ、同年3月には元就から安芸国山県郡戸河内に給地を与えられる。 また、天文23年(1554年)6月5日の折敷畑の戦いでも敵を討ち取る武功を挙げ、元就と隆元から感状を与えられる。弘治2年(1557年)4月1日には隆元の命を受けて石見国泉山城の佐波興連への急使を務めた。 弘治3年(1558年)9月28日に周防国河内郷に5貫、永禄4年(1561年)3月1日には同じく周防国河内郷に10貫と岩国に5貫の地を隆元より与えられ、元亀3年(1572年)に毛利輝元から「伯耆守」の受領名を与えられた。 没年は不明。子の元定が家督を継いだ。
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毛利氏の家臣で毛利水軍の将の一人。義武の父・藤左衛門以前の系譜については不明。 天文10年(1541年)、主君毛利元就は安芸武田氏を滅亡に追い込み、吉田の山奥から瀬戸内海へ通じる領土を得た元就は、水軍の重要性を認め、児玉就方と義武に川内警固衆を統率させ、武田氏の旧臣で川内警固衆の福井元信と山県就相を与力として附属させた。これによって毛利水軍が成立した。 天文20年(1551年)の大寧寺の変の後に周防国の大内氏を牛耳る陶晴賢との対立が先鋭化すると、義武は川内警固衆を率いて大内方の水軍と激突する。天文24年(1555年)6月8日、宮尾城防備を巡視するため、元就が安芸国佐伯郡大野浦から厳島へ渡海する途上、陶晴賢麾下の桑原隆祐らの軍船3隻が元就が乗る船に迫った。これに対し、元就に従う桑原龍秋や金山次郎五郎らが奮戦して防ぎ、義武は乃美宗勝らと共に元就の救援にかけつけ、桑原隆祐はじめ水夫や舵手に至るまで悉く討ち取った。また同年の厳島の戦いでは、元就率いる本隊を厳島の裏側の包ヶ浦に上陸させ、勝利の一翼を担った。 その後も毛利水軍の一員として出陣し、弘治2年(1556年)から始まる防長経略、豊後国の大友氏との戦い、天正4年(1576年)の織田氏との第一次木津川口の戦いでは石山本願寺への兵糧搬入などを担った。 天正20年(1592年)7月7日に死去。嫡男の元著が後を継いだ。
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