<神皇系氏族>天孫系

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丹波時長 藤原秀隆

 医者として名声を極めた人物であり、正治元年(1199年)に源頼朝の次女・乙姫が病に倒れると、鎌倉幕府より治療のために鎌倉に下向するように求められるが固辞した。しかし院宣が出たため、鎌倉に下向して治療に当たった。一時的に乙姫は回復したが、後に再び体調を崩して回復の見込み無しとして都に帰ったという。
  承久元年(1219年)に第3代将軍・源実朝が暗殺され、九条頼経が後継の将軍として鎌倉に下向すると、子の長世と共に鎌倉に下向して将軍家の権侍医として仕えたという。

 豊臣秀吉に仕え、諱の字を与えられ秀隆と称するとともに、従五位下・侍従に叙任された。この時、本姓を丹波氏より藤原氏に改めた。天正16年(1588年)後陽成天皇が聚楽第に行幸の時に騎馬にて供奉し、和歌御会に出席する。その後、従四位下・少将に叙任されるが、父に先立ち夭折した。
施薬院全宗 施薬院全伯

  幼少時に父を失い僧籍となり、比叡山菜樹院の住持であった。織田信長による比叡山焼き討ちに遭い、その時豊臣秀吉にもその意図があると聞き及んだために、還俗して曲直瀬道三に入門し、漢方医学を極め、豊臣秀吉の知遇を得て侍医となりながら叡山の弁護にあたった。
  秀吉が天下人になった後の天正13年(1585年)に大飢饉と疫病の流行にみまわれると、廃絶していた祖先よりの「施薬院」の復興を願い出て許された。全宗はこの復興に尽くし、身分の上下を問わない施療を再開した。天正年間に勅命を受けて施薬院使に任命、従五位下に叙され昇殿を許される。7月下旬から9月までの間に号を「施薬院」とした。
「(全宗の)言ふところ必ず聞かれ、望むところ必ず達す」というほど秀吉の信頼は厚く、秀吉の諱を与えられた息子の秀隆とともに秀吉側近としても活躍し、伊達政宗・佐竹義重との交渉役などを務めている。天正15年(1587年)発布の定(バテレン追放令)は全宗の筆による。豊臣氏番医の筆頭として、番医制の運営につとめる。焼き討ち後の荒廃した比叡山の再興にも尽力した。
  天正18年(1590年)に嫡男の秀隆が病没(外来の伝染病という)したため、近江の三雲資隆の子を養子とし、宗伯として継がせ、曲直瀬氏嫡流を守り道三流医術の衰退を防止した。この子孫は代々施薬院使を務めることになった。
豊臣秀次の失脚事件を契機に曲直瀬一門の結束が全宗を頂点に強化されたことが知られる。
  後に正四位に陞爵。慶長元年12月10日(1597年1月27日)に没したとされてきたが、宮本義己により慶長4年12月10日(1600年1月25日)没であることが判明した。享年74(一説に69ともいう)。京都十念寺に葬られる。

 近江国に生まれる。幼くして父を亡くし、一鴎宗虎に養育されて医業を学び、薬の知識も得る。後に施薬院全宗の養子となるも、その嫡男施薬院秀隆が夭折したため、急遽跡継ぎとして家業を継ぎ、法眼に叙任されて豊臣秀吉の侍医となった。慶長4年(1599年)に養父の全宗が没すると法院に叙任され、勅許により施薬院使に任じられ、御所昇殿を許された。そして、徳川家康に仕えていつも側にあり、家康の子の武田信吉が疱瘡にかかった時には、その薬によって立ちどころに治癒した。翌年の関ヶ原の戦いにも供奉し、9月11日に家康が体調が優れない時に薬を調合しこれを勧めた。9月13日に家康が岐阜に着陣してからは、常に陣中にあった。
 慶長19年(1614年)から始まる大坂の役では、徳川秀忠に同行している。      元和3年(1617年)8月14日、山城国愛宕郡,葛野郡,和泉国泉郡,近江国野洲郡内において480余石の領地を賜った。養父の妻に賜った野洲郡の領地と併せて500余石を知行する。寛永11年(1634年)、二条城内に一宇を与えられ、のちに致仕し、養老料月俸50口を賜った。寛文3年(1663年)、88歳で没する。法名は同じ宗伯。東叡山護国院に葬られた。
  徳川将軍家(家康,秀忠,家光)が入洛の際には、宗伯の屋敷で装束を改め参内したので、代々これが慣例となった。禁裏付医師として京都に定住した。歴代当主は家督継承前には三雲の名字を名乗り、家督を相続すると施薬院へと名字を変えた。