三千代の出仕時期は不明であるが、天武8年(679年)には氏女の制により豪族女性の出仕年齢が15歳前後に定められ、三千代も同年に命婦として宮中に仕えたと考えられている。和銅元年(708年)11月には即位直後の元明天皇から橘宿禰姓を賜っており、また養老5年(721年)5月には元明太上天皇の病平癒を祈念して仏門に入っていることから、天智天皇の娘で草壁皇子の妻となった阿閉皇女(元明天皇)に出仕した可能性が考えられている。 はじめ美努王に嫁し、天武天皇13年(684年)に第一子葛城王(後の橘諸兄)をはじめ、佐為王(後の橘佐為),牟漏女王を生む。 時期は不詳であるが美努王とは離別し、藤原不比等の後妻となり、光明子・多比能を生んだ。文武天皇元年(697年)8月には不比等の娘宮子が即位直後の文武天皇夫人となり、こうした不比等の栄達の背景には阿閉皇女の信頼を受けた三千代の存在があったと考えられている。 県犬養一族のなかで橘姓への改姓は三千代のみである。また、藤原宮跡からは大宝元年の年記を持つ「道代」木簡と大宝三年の年記を持つ木簡群に含まれる「三千代」木簡が出土しており、橘姓改姓と同時に名も道代から三千代に改名したと考えられている。 養老4年(720年)には夫の不比等が死去し、翌養老5年には正三位に叙せられ、宮人としての最高位に叙せられている。同じ年元明天皇の危篤に際し出家。733年(天平5年)1月11日に薨去。死後に正一位と大夫人の称号を贈られた。
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元正朝の養老4年(720年)従五位下・弾正弼に任ぜられ、翌養老5年(721年)右衛士佐に転じる。 神亀6年(729年)長屋王の変の後に従五位上に叙せられると、聖武朝の初期には右少弁・少納言と太政官の官人を務める。右少弁在任中の天平7年(735年)には、親族を殺害されたとして遺族から阿倍帯麻呂が太政官へ訴えられた際に、この訴訟を放置したことを理由に右大弁・大伴道足ら他の弁官・史と共に罰せられるが、結局詔により赦免されている。 天平9年(737年)藤原四兄弟の没後間もなく正五位下に進み、石次の親族にあたる橘諸兄が右大臣に昇って朝廷の実権を握ると、天平11年(739年)には抜擢を受けて、従四位下・参議に昇進し公卿に列す。議政官として式部大輔・左京大夫を務めた。 天平14年(742年)10月14日卒去。
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天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱終結後まもない9月末に、内麻呂を含む一族15名が宿禰姓から大宿禰姓に改姓する。同年12月には正七位上から五階昇進して従五位下に叙爵した。天平神護3年(767年)下野介に任ぜられる。 神護景雲3年(769年)称徳天皇を呪詛した疑いで県犬養姉女が県犬養大宿禰から犬部に改姓させられた上で流罪に処されると、内麻呂も連座して同じく改姓させられ官位を剥奪されたとみられる。 光仁朝の宝亀2年(771年)姉女の嫌疑が晴れると、内麻呂と姉女は犬部から県犬養宿禰に改姓する。翌宝亀3年(772年)正月に姉女は復位するが、内麻呂は宝亀5年(774年)になって従五位下への復位を果たしている。
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県犬養大伴は、壬申の乱の際、大海人皇子が挙兵のため吉野から東国に出立したときに、皇子に従った二十数人の男の一人であった。『日本書紀』には、6月24日の出発のとき大海人皇子は馬がなく、途中で県犬養連大伴の馬に遭遇し、それに乗ったとされるが、書紀の潤色とされる。壬申の功により県犬養連大侶が100戸を封じたとされる。 天武天皇9年(680年)7月5日に、天皇は犬養連大伴の家に出向いて病を見舞った。天武天皇13年(684年)12月2日に、県犬養氏ら50の連姓の諸氏は宿禰の姓になった。 朱鳥元年(686年)8月9日に天武天皇は亡くなり、27日に皇族,臣下が天皇に対して誄を述べたが、大伴が誄して宮内のこと全般を語った。これにより彼が宮内のことに携わっていたと知れる。 大宝元年(701年)正月29日に死去。このときの位は直広壱であった。文武天皇は、夜気王らを遣わして詔を述べさせ、壬申の乱での功によって正広参の位を贈った。
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慶雲2年12月(706年1月)従六位下から四階昇進して従五位下に叙爵。元明朝から元正朝にかけて、和銅4年(711年)従五位上、和銅8年(715年)正五位下、養老3年(719年)正五位上と順調に昇進する。この間の霊亀2年(716年)志貴皇子の薨去に際して、六人部王と共に葬儀を監護するために派遣されている。 聖武朝の神亀元年(724年)4月18日卒去。
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天平宝字7年(763年)に従五位下に叙され、大宿禰のカバネを賜った。天平神護元年(765年)には従五位上にまで登ったが、忍坂女王,石田女王,不破内親王らと共謀して塩焼王の子・氷上志計志麻呂を天皇に擁立しようとし、称徳天皇を呪い殺そうとした嫌疑を受けて 神護景雲3年(769年)にカバネを犬部と改めさせられ島流しに処された。その後の宝亀2年(771年)に前の嫌疑は丹比乙女の讒言だったとして本姓に復した。翌年の宝亀3年(772年)には再び従五位下に叙せられた。 |
広刀自は皇太子首(聖武天皇)の夫人であり、聖武との間に安積親王,井上内親王,不破内親王の1男2女をもうけた。 聖武天皇の妃となった時期は詳しくはわからないが、『続日本紀』によれば安積親王が天平16年(744年)に17歳であったことから、少なくとも神亀5年(728年)には聖武天皇の妻になっていたことが判明しており、背景には県犬養氏の族長的立場にあった橘三千代の推挙があったと考えられている。 聖武天皇と光明皇后との間に産まれた基親王は早くに亡くなり、安積親王の存在がクローズアップされるようになると、藤原氏は対抗措置として前例のない内親王の立太子を実現させた。そんな中で、安積自身も若くして死去してしまう。 広刀自は、安積親王が没してから18年後の天平宝字6年(762年)10月に死去した。このとき正三位。なお、光仁天皇の皇后となりながらも、廃后の末に不自然な死を遂げた井上内親王など、広刀自所生の子女はいずれも悲劇的な運命を辿った。
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