<皇孫系氏族>神武天皇後裔

TA04:多 近方  多  稲見 ー 多  近方 ー 多  久泰 TA05:多 久泰

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多 久泰 多 久顕 多 久康

 父から堀河天皇御宸筆の神楽譜と採桑老2帖を伝えられた。1480(文明12)年3月29日、右兵衛少志となる。
  1506(永正13)年7月6日、従五位上に叙される。同年11月、陪従代職について豊原盛秋と争いがあった。久泰の訴えには、久時が仰せ付けられて数年勤めたが、豊原繁秋が競望して掠めとられたが、一代限りのことならと堪忍し、その後、久盛,久泰が勤めてきたが、先日、豊原盛秋が付歌の人数がいない事も理由に挙げて、陪従代職を望んできたが、堂上も地下も人手があり、陪従代を召し上げられてしまうと、一流が断絶してしまうとある。この中に久盛という名がでてくるが、系図に見当たらない。すこし久時と久泰の時代に差があるようにも思え、陪従代職がこのように継承されてきたならば、もしかすると久盛が久時の子、久泰の父かもしれない。
年月日不詳であるが、対馬守に任ぜられている。

 1812(文化9)年11月30日、11歳で正六位下に叙され、三河介に任ぜられる。1816(文化13)年5月23日、父久視に代わり、久隆の養子となる。1846(弘化3)年10月5日、45歳で従四位下に叙され、三河守に任ぜられる。1868(明治元)年発行の『都仁志喜』には、正四位下、安芸守とある。
  1870(明治3)年11月7日、太政官内に雅楽局が設置され伶員となる。翌年、退官。1890(明治23)年9月1日死亡。持ち管は篳篥。

 元大神家の養子となっており、基貫と名乗っていた。1844(天保15)年11月25日、11歳で正六位下に叙され、右近将曹に任ぜられる。1845(弘化2)年6月6日、実家に復し、同月11日、多久康に改めた。1868(明治元年)発行の『都仁志喜』には、従五位上、右将曹とある。
 1870(明治3)年11月7日、太政官内に雅楽局が設置され伶員となり、1874(明治7)年には上等伶員となり、ついで少伶人となった。
明治8(1875)年4月4日、官制改革により権官が設置され、権中伶人となる。1878(明治11)年8月29日、投票の結果、一等伶員となる。1888(明治21)年退官。
 1903(明治36)年7月13日死亡。持ち管は笛、西洋楽器はクラリネット。

多 久音

多 忠吉

 1683(天和3)年9月21日、11歳で正六位下に叙され右衛門少志に任ぜられ、同年12月28日、内侍所御神楽において、仮の人長となり人長舞を舞った。これは、時の人長であった多忠胤が実父久貴の喪中であった為で、勅定により伝授を受けたものである。
  1703(元禄16)年12月22日、31歳で豊後守を兼任し、1705(宝永2)年12月18日、従五位下に叙された。
  和琴は四辻公韶から相伝されている。1714(正徳4)年9月18日死亡。

 忠陣の養子となるが、後に実家に復籍する。兄に久敬がいる。1785(天明5)年3月14日、11歳で正六位下に叙され左近将曹に任ぜられる。さらに、1793(寛政5)年2月19日、19歳で従五位下に叙され、肥後守を兼ねて任ぜられた。
 1807(文化4)年3月14日、実家に復籍。以後久敬の庶流の笙吹となる。実家は笙の家系だが、復籍までは篳篥の家系なので篳篥を吹いていたと思われる。
 1809(文化6)年7月1日、成久に名を改めた。1811(文化8)年12月21日、39歳で正五位下に叙され、土佐守に任ぜらた。
 1817(文化14)年10月5日、紅葉山楽人に補され、11月27日、関東に下向する。
1824(文政7)年2月16日死亡。

 

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