父と長兄の節方が山村政連に殺されたため、絶えようとしていた神楽を堀河天皇から教授され、自筆の神楽譜を与えられた。さらに源雅実が伝えていた「胡飲酒」という楽曲の舞も彼に継承させた。永久2年右近衛将監。33年間右舞の一者をつとめた。保延元年6月16日死去。 |
1159(平治元)年に内舎人として初見。1167(仁安2)年2月1日、右近将曹に任ぜられた。後白河院の時代、蓮華王院惣社の法要で胡飲酒を舞ったとある。 1206(建永元)年、忠成が殺される。父忠節は諸事を弟の忠成に伝え、その事に腹を立て、景節は先年より関東にいたが、この殺害の件では景節が行ったとの疑いがあり、検非違使庁に召された。『楽所補任』には景節の子童が強盗の体で打ち殺したとある。殺害理由として、胡飲酒は二人とも父の忠節から相伝したが、神楽は相伝されず、父のいとこにあたる成方からの相伝と『神楽血脈』にあること、嫡流を弟が継いだ事などによるとされる。
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『楽家類聚』では、忠久が中原景康の養子となり、関東に下向し、1198(建久9)年、星川の姓を与えられたと『体源鈔』等にあるとあるが、『系図纂要』は「中原景康為子」とある。中原景康は1237(嘉禎3)年7月、鶴岡八幡宮での御神楽の為に神楽曲を大江久康に授けることが『吾妻鏡』に出ており、多景節は関東下向の際すでに50~60歳と考えられ、多忠久も1198年に星川を与えられるほどであったことから、中原景康が多忠久の子となり、篳篥の家の中原氏も神楽を伝承することになったのではないか。また、「星川」についても「賜星川」としかなく姓とは書かれておらず、神奈川県保土ヶ谷区に星川という地域があり、この地を賜って関東に定住したのではないかと考えられる。 |
1185(文治元)年、右兵衛尉に任ぜられる。1195(建久6)年3月12日の東大寺供養の日、胡飲酒を舞って初めて賜るとあるが何を賜ったのかは不明。 1201(建仁元)年2月23日、朝覲行幸の時に胡飲酒の賞で、右近将監に任ぜられた。 1206(建永元)年9月9日、兄景節の子により殺害され、これにより、また胡飲酒の相伝が途絶えてしまった。また、嫡流でありながら右一者にはなれなかった。
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1206(建永元)年9月9日、父の忠茂が殺される。1218(建保6)年5月16日、多久行に舞曲を習うよう院宣が下された。同年11月6日、元服。12月12日、右兵衛尉に任ぜられた。1240(仁治元)年12月18日、久資とともに右近将監になったものと思われる。 1247(宝治元)年6月30日、前内府・土御門定通が、胡飲酒の舞を忠茂に授けるべきである旨奏上された。 1259(正元元)年9月1日、八幡宮寺での舞楽で陵王荒序に対する納曽利を子の忠世と共に舞い、衣を給わっている。1270(文永7)年10月19日、嵯峨殿での胡飲酒の賞に、26日、従五位下に任ぜられた。
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1261(文応2)年4月7日の叙目で右衛門志に任じられた。 1310(延慶3)年2月16日、興福寺の常楽会で、陵王荒序に対する納曽利を多久世と舞っている。1317(文保元)年4月16日、八幡への御幸の際に宮人を歌った賞で、雅楽頭に任ぜられた。 1332(元弘2)年の多久氏の死亡により、右一者になったと思われる。1333(元弘3)年10月1日、旬節会で陵王荒序に対する納曽利を多久春と舞ったとある。 1334(建武元)年3月27日、死亡。79歳。一者3年。極官は正五位下、上総介。北面の武士ともある。
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1394(明徳5)年3月15日の常楽会において、陵王荒序に対する納曽利を忠興一人で舞ったが、これは、一者の役であるが久景が故障の為に、二者の忠興が舞ったとある。また、別の箇所には久景が舞うべきところ老体で舞えなかった。その後、久景が死亡し、右方一者になったものと思われる。 1399(応永6)年3月11日、興福寺供養があり、荒序の答としての納曽利を一人舞っている。1405(応永12)年4月26日の清涼殿における後円融天皇13回忌の法華八講では、振鉾・一曲を舞っている。また、子の忠清と納曽利を舞っている。同年6月6日から春日大社で七ケ夜の御神楽が行われたが、その前の5月30日、所作人13人の大粮として39貫文を「上総守」忠興が代表して受け取っている。 1417(応永24)年7月28日、仙洞御所での舞御覧における荒序の答としての納曽利を多久乙と舞ったとある。なお、『教興卿記』によると、一曲,振鉾,貴徳も舞っている。1419(応永26)年8月23日、東洞院殿にて舞御覧があり、久乙と納曽利を舞い、禄を賜っている。1423(応永30)年7月19日の仙洞御所での舞御覧においても参仕している。
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1443(嘉吉3)年3月31日の北野一切経会には、叔父の忠清、いとこの忠久とともに参仕している 1474(文明6)年1月28日、内侍所御神楽があり、臨時の方は付歌を恒例の方は末拍子を担当している。このとき24日上洛し、久時と共に、装束がないので貸してほしいと申し出があったが、直前で難しく、善世の時でも不相応の装束を着用していたので、今回も五位ながら四位の夏袍等を渡したとある。同年3月26日の内侍所御神楽でも付歌を担当している。 1477(文明9)年12月21日の内侍所御神楽では、臨時は付歌、恒例は末拍子を担当している。本家の忠久よりも上位。
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1554(天文23)年2月5日、左兵衛少尉に任ぜられる。1560(永禄3)年2月4日の内侍所御神楽では、付歌に名が見える。 1563(永禄6)年3月29日、内侍所御神楽で人長をしている。『楽家録』には、今世の多氏の人長は天正以来、安倍季雄に習って忠季が始めたとしているが、それ以前からしており、また、兄の忠雄はさらに以前の永禄3年に行っている。ただし、人長の役は忠季の家系が伝えている。 1571(元亀2)年11月28日、備前守に任ぜられる。 後陽成天皇の仰せで、天王寺楽人の太秦広康から右舞を伝えられる。1621(元和7)年11月20日死亡。多氏人長中祖とある。
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