AW01:在原業平 | 在原業平 ― 長野業輔 | AW04:長野業輔 | ● |
リンク |
長野憲業 | 長野業正 |
---|---|
系図上で業尚の次に記されるのが伊予守憲業(兼業・信業)で、永正9年(1512)に下室田の長年寺に対し壁書を定めている。それは、長年寺を「不入」の地として尊重し、重罪人でも寺内に入れば領主などの「成敗」が及ばないことなどを規定したものである。翌年4月には、榛名山の巌殿寺に願文を捧げ、大戸城を攻め落とすことを祈願している。憲業は大戸城に攻撃を仕掛け、長野氏の軍事的拡大を図ったようだが、大戸城を抜くことは出来なかった。 |
業氏の室田鷹留城、厩橋長野氏を含めた三本柱を枢軸に、かつて上野一揆として同格であった武士たちを組織・編成して西上野の雄に成長した。また、惣社長尾氏を動かすまでになった。 |
長野業盛 | 長野方業 |
兄・吉業は天文15年(1546年)の河越城の戦いの際に討死したため、父・業正が没すると17歳で家督を継ぐ。永禄4年(1561年)に武田軍の攻撃を撃退したものの、信玄の西上野侵攻はさらに激しくなり、同年11月には小幡氏が武田氏に降り、箕輪城を中心とした一揆の一角が破れた。永禄7年になると倉賀野城、安中・松井田城が落城し、ついに武田氏は長野氏の箕輪城近くまで攻め寄せてきた。翌永禄8年、信玄は諏訪上社と佐久新海明神に願文を捧げ、箕輪城をはじめ総社・白井などの諸城攻略を祈り上州に出陣してきた。 |
大永4年(1524年)に惣社長尾家の長尾顕景と白井長尾家の長尾景誠が北条氏綱・長尾為景と結んで関東管領上杉憲寛に叛旗を翻した際、方業が惣社長尾氏の重臣の徳雲斎を調略したことが知られている。ところが、内応が発覚した徳雲斎は顕景に殺害されたために、長野宮内大輔(賢忠?)とともに惣社長尾家を攻め、追い詰められた顕景が既に憲寛と和睦をしていた長尾為景の仲介で降伏した。なお、長尾景誠の妻は業正の姉とされていることから、方業と業正が父子とすれば当然ながら景誠室の父は氏業ということになるとともに、この事件(景誠の離反・降伏)との関係も考えられる。また、享禄年間に発生した山内上杉家の内紛は、長野氏・高田氏が擁する上杉憲寛と小幡氏・安中氏・藤田氏らが擁する上杉憲政の間で繰り広げられ、箕輪長野氏の当主である方業が前者陣営の中心的存在であったとみられているが敗れている。憲寛方の諸氏は許されて、方業の後継者とみられる業正の娘を小幡憲重に嫁がせ、その後箕輪長野氏(方業)の養女になっていたとみられる沼田顕泰の娘を安中重繁に、その重繁の娘を高田繁頼に嫁がせることで当事者間の和解が図られている。 |