<皇孫系氏族>平城天皇後裔

AW01:在原業平  平城天皇 ― 在原業平 ― 長野業輔 AW02:長野業輔

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長野憲業

長野業正

 系図上で業尚の次に記されるのが伊予守憲業(兼業・信業)で、永正9年(1512)に下室田の長年寺に対し壁書を定めている。それは、長年寺を「不入」の地として尊重し、重罪人でも寺内に入れば領主などの「成敗」が及ばないことなどを規定したものである。翌年4月には、榛名山の巌殿寺に願文を捧げ、大戸城を攻め落とすことを祈願している。憲業は大戸城に攻撃を仕掛け、長野氏の軍事的拡大を図ったようだが、大戸城を抜くことは出来なかった。
 大永6年(1526)、憲業は箕輪城を築くと長子業氏に鷹留城を与え、箕輪城を拠点として西上州に勢力圏を拡大し、惣社長尾氏の勢力圏と境を接するまでになった。翌7年には、惣社長尾顕方が後北条方に通じたことを口実に、弟で厩橋城主の左衛門大夫方業とともに惣社長尾氏を挟撃している。
 この長野氏の台頭に対して、惣社長尾氏は白井長尾氏とともに越後の長尾為景と結ぶことで頽勢を克服しようとした。さらに、為景が山内上杉氏と和を結んだことで、両長尾氏は山内上杉家への復帰を為景を通じて図ろうとした。
 ちなみに、為景と山内上杉氏の和議を取り結んだのは、長野氏の菩提寺である長年寺の長老で、その会談は草津で行われている。その背景には、長野氏が何らかの形で働いたとみてまず間違いないだろう。そして、山内上杉家内部における主導権は、長尾氏に代わって長野氏が掌握するところとなっていった。その後、憲業は箕輪城を次男の業政に譲ったのち、吾妻郡猿ケ京の古城を修築してそこに拠った。

 業氏の室田鷹留城、厩橋長野氏を含めた三本柱を枢軸に、かつて上野一揆として同格であった武士たちを組織・編成して西上野の雄に成長した。また、惣社長尾氏を動かすまでになった。
 この頃、小田原を拠点とする北条氏が相模から武蔵へと勢力を伸張し、北条氏綱は扇谷上杉氏に攻勢をかけ、大永4年(1524)に江戸城、ついで岩付城を攻略し、天文6年(1537)には河越城を攻め落とした。
 天文14年(1545)、山内上杉憲政は一説に8万とも称される大軍で後北条方の武蔵国河越城を攻撃したが、翌15年、北条氏康の夜襲によって連合軍は壊滅的敗北を喫した。この陣に長野業政も上杉方として参加し、業政の嫡男吉業は重傷を負い亡くなっている。この敗戦で北条氏康の勢力が関東一円を席巻するようになるが、白井・惣社の両長尾氏、長野氏を盟主とする和田・小幡らの上野勢、さらに太田・成田・深谷上杉らの武蔵勢は依然として山内方にあった。
 このとき上杉憲政は、上杉家の威勢を示すため甲斐の武田信玄を討てば、氏康は自然に投降してくるという愚策を取り、長野業政の反対を押し切って、憲政は2万騎の軍勢を催して碓氷峠に兵を進めたが、上杉軍の大敗に終わった。
 後北条氏に加えて武田氏をも敵にまわす結果となった憲政は、長尾景虎を頼って関東から逃れ去った。氏康は平井城に北条長綱をいれ、ついで厩橋・沼田城を攻略していったが、業政は箕輪城に拠って後北条軍に屈しなかった。
 憲政が越後の長尾景虎を頼って平井城から退去すると、業政は管領再興を名分として後北条,武田氏の侵攻に対抗するため西上野の武士たちを結集し、「箕輪衆」と称した。業政には十二人の娘があり、姻戚関係を通じて長野氏の勢力は著しく強化され西上野最大の軍団を形成した。そして、この勢力をもって業政は武田信玄の西上野侵攻の前に大きく立ちはだかった。
 信玄は上野侵攻を決意。関東管領職を譲られた景虎は当然、関東に兵を出し上野を支配下におくことは必定である。それは信玄にとって、越後と上野の両面から領国信濃・甲斐を脅かされることになる。このことが信玄に上野侵攻を決意させたのである。
 業政は侍621騎、精兵1万を擁して箕輪城を守っていた。信玄は業政にまともに当たる愚を避けるため懐柔策を講じた。信玄は業政に書状を送り、武田の上野侵攻の先導役を努めてくれるよう依頼したが、業政はにべもなくその申し入れを断わった。
 懐柔に失敗した信玄は、武力による上野侵攻を決行することになる。弘治3年(1557)4月、信玄の嫡子義信を大将とする1万3千の武田軍は、余地峠を越え上州に攻め込んだ。これを迎え撃った業政は、先陣を叩くと箕輪城に籠城し武田軍の矛先をかわした。翌永禄元年、信玄みずからが武田軍団を率いて上州に侵攻した。このとき、たまたま吾妻方面に出向いていた業政は、信玄の来攻を知るやただちに兵を帰し、夜営中の武田勢を急襲して散々に打ち破った。翌日には折りからの強風を利して武田勢の風上にまわると火を放った。武田軍は食糧を焼き、弾薬を爆発させるという有様になり、命からがら甲斐に逃げ帰った。
 やがて、憲政を庇護していた越後の長尾景虎(のち上杉謙信)が、永禄3年から翌年にかけて関東に出兵してくると、長野氏は箕輪衆,厩橋衆を率いてこれに参陣した。
 一方、度重なる敗戦に意地となった信玄は、永禄4年5月、2万の軍勢をもって鷹留城を攻撃し、さらに箕輪城へ攻め寄せた。しかし、箕輪城を抜くことはできず、またもや信玄は無残な敗退を味わされた。しかし、信玄は長野方の戦術の変化に気付き、業政の死を直感したという。信玄の直感通り、業政は永禄3年(永禄4年説もある)6月に病没していて、長野勢はそれを秘して武田軍を迎え撃っていた。

長野業盛

長野方業

 兄・吉業は天文15年(1546年)の河越城の戦いの際に討死したため、父・業正が没すると17歳で家督を継ぐ。永禄4年(1561年)に武田軍の攻撃を撃退したものの、信玄の西上野侵攻はさらに激しくなり、同年11月には小幡氏が武田氏に降り、箕輪城を中心とした一揆の一角が破れた。永禄7年になると倉賀野城、安中・松井田城が落城し、ついに武田氏は長野氏の箕輪城近くまで攻め寄せてきた。翌永禄8年、信玄は諏訪上社と佐久新海明神に願文を捧げ、箕輪城をはじめ総社・白井などの諸城攻略を祈り上州に出陣してきた。
 永禄9年(1566年)、武田信玄が2万の大軍を率いて攻め込む。
その様子は『箕輪軍記』には以下のように記されている。
 「信玄は、安中・松井田・箕輪の三城を同時に攻略した。松井田・安中の落城によって碓氷川から烏川の流域で甲州軍が進み、若田原で激戦が展開された。城方の青柳忠家は、200人の手兵を率いて白岩で防戦したが敗れて退いた。追撃する武田方の軍兵は箕輪城の城門近くまで寄せ、城兵は城門を開いては打って出たが、その度に戦死者が多く出て城へ戻らず、城兵の数も少なくなってきた。長野業盛は、いよいよ最後の時が迫ったことを知り、持仏堂に入り、念仏を三遍唱えて自害した。家臣たちもその後を追って自害した」と。享年23。遺骸は哀れに思った僧法如らが高崎市の大円寺の墓地に葬ったといわれている。
 こうして箕輪城は落城、長野氏は滅亡し、田信玄の上野支配を確実なものとした。翌永禄10年、信玄は内藤修理亮昌月を箕輪城に入れ上野の抑えとした。

 大永4年(1524年)に惣社長尾家の長尾顕景と白井長尾家の長尾景誠が北条氏綱・長尾為景と結んで関東管領上杉憲寛に叛旗を翻した際、方業が惣社長尾氏の重臣の徳雲斎を調略したことが知られている。ところが、内応が発覚した徳雲斎は顕景に殺害されたために、長野宮内大輔(賢忠?)とともに惣社長尾家を攻め、追い詰められた顕景が既に憲寛と和睦をしていた長尾為景の仲介で降伏した。なお、長尾景誠の妻は業正の姉とされていることから、方業と業正が父子とすれば当然ながら景誠室の父は氏業ということになるとともに、この事件(景誠の離反,降伏)との関係も考えられる。また、享禄年間に発生した山内上杉家の内紛は、長野氏・高田氏が擁する上杉憲寛と小幡氏・安中氏・藤田氏らが擁する上杉憲政の間で繰り広げられ、箕輪長野氏の当主である方業が前者陣営の中心的存在であったとみられているが敗れている。憲寛方の諸氏は許されて、方業の後継者とみられる業正の娘を小幡憲重に嫁がせ、その後箕輪長野氏(方業)の養女になっていたとみられる沼田顕泰の娘を安中重繁に、その重繁の娘を高田繁頼に嫁がせることで当事者間の和解が図られている。

 

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