<皇孫系氏族>平城天皇後裔

K312:平城天皇  在原行平/業平 AW01:在原行平/業平

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在原行平 在原業平 在原友于

 天長3年(826年)父・阿保親王の奏請により兄弟と共に在原朝臣姓を賜与され臣籍降下する。
 承和9年(843年)に承和の変後急死した阿保親王の子息のうち、比較的順調な昇進ぶりを示し、特に民政に才を発揮した。承和7年(840年)仁明天皇の蔵人に任じられ、翌承和8年(841年)従五位下・侍従に叙任される。承和13年(846年)従五位上・右近衛少将に叙任されると、以降は主に武官と地方官を務める。
 文徳朝の斉衡2年(855年)正月の除目で従四位下に叙せられると同時に因幡守に任ぜられ地方官に転じる。地方赴任2年余りで斉衡4年(857年)兵部大輔として京官に復し帰京する。なお、『古今和歌集』によれば、理由は明らかでないが文徳天皇のとき須磨に蟄居を余儀なくされたといい、須磨滞在時に寂しさを紛らわすために浜辺に流れ着いた木片から一弦琴である須磨琴を製作したと伝えられている。
 清和朝では左京大夫・大蔵大輔・左兵衛督を務めながら、貞観4年(862年)従四位上、貞観8年(866年)正四位下と昇進し、貞観12年(870年)参議に補任され公卿に列す。貞観14年(872年)には蔵人頭を兼ねるが、参議が蔵人頭を兼帯した例は非常に珍しい。
 元慶5年(881年)在原氏の学問所として大学別曹奨学院を創設した。これは朱雀大路東・三条大路の北一町を占め、住居を与えて大学寮を目指す子弟を教育したもので、当時は藤原氏の勧学院と並んで著名であった。なお、行平の死後、醍醐天皇のときに奨学院は大学寮の南曹とされた。元慶6年(882年)正三位・中納言に至るが、仁和3年(887年)70歳の時、中納言兼民部卿陸奥出羽按察使を致仕して引退した。宇多朝の寛平5年(893年)7月19日薨去。享年76。

 血筋からすれば非常に高貴な身分だが、薬子の変により皇統が嵯峨天皇子孫へ移っていたこともあり、天長3年(826年)に父・阿保親王の上表によって臣籍降下し、兄・行平らと共に在原朝臣姓を名乗る。
 仁明朝では左近衛将監に蔵人を兼ねて天皇の身近に仕え、仁明朝末の嘉祥2年(849年)无位から従五位下に直叙される。文徳朝になると全く昇進が止まり、官職に就いた記録もなく不遇な時期を過ごした。
 清和朝では、貞観4年(862年)に従五位上に叙せられたのち、左兵衛権佐・左近衛権少将と武官を務める。貞観7年(865年)右馬頭に遷るとこれを10年以上に亘って務め、この間に貞観11年(869年)正五位下,貞観15年(873年)従四位下と昇叙されている。
 陽成朝に入ると、元慶元年(877年)従四位上・右近衛権中将に叙任されて近衛次将に復すと、元慶3年(879年)には蔵人頭に任ぜられるなど要職を務める。蔵人頭への任官については皇太夫人・藤原高子からの推挙があったと想定される。またこの頃には、文徳天皇の皇子・惟喬親王に仕え、和歌を奉るなどしている。元慶4年(880年)5月28日卒去。享年56。

左京少進,春宮少進,主殿権助を経て、元慶元年(877年)陽成天皇の即位に伴う叙位にて従五位下に叙爵する。元慶3年(879年)右兵衛権佐に任ぜられると、元慶7年(883年)右近衛権少将と武官を務めた。元慶3年(879年)清和上皇の龍門寺参詣の際、源昇と共に供奉し、大伴・安曇仙人の旧廬を見て往時を偲び涙したという。
 元慶8年(884年)光孝天皇の即位に前後して従五位上に叙せられると、宇多朝前半まで近衛少将を務めながら順調に昇進し、寛平7年(895年)には蔵人頭に任ぜられた。
 寛平9年(897年)醍醐天皇の即位に伴って蔵人頭を止められて左近衛中将兼修理大夫を務めるが、昌泰2年(899年)蔵人頭に再任され、翌昌泰3年(900年)参議に任ぜられ公卿に列した。議政官を務める傍ら修理大夫・左兵衛督を兼ね、延喜6年(906年)正四位下に至る。延喜7年(907年)には大宰権帥を兼帯している。
 延喜10年(910年)4月20日卒去。享年68。

大谷吉継 大谷吉治

 天正始め頃に秀吉の小姓となった。天正5年(1577年)10月に秀吉が織田信長から播磨国攻略を命令されて姫路城を本拠地としたとき、脇坂安治や一柳直末,福島正則,加藤清正,仙石秀久らと共に秀吉御馬廻り衆の1人として大谷平馬の名前が見える。
 天正13年(1585年)、紀州征伐においては増田長盛と共に2,000の兵を率いて従軍し、最後まで抵抗を続ける紀州勢の杉本荒法師を槍で一突きにして討ち取った武功が『根来寺焼討太田責細記』に記されている。文書の発給もこの頃から見え、称名寺へ寺領安堵状を「大谷紀之介」の名で発給している。
 同年7月11日、秀吉は近衛前久の猶子となって従一位・関白に叙任したが、このとき諸大夫12名を置き、吉継は従五位下刑部少輔に叙任される。これにより「大谷刑部」と呼ばれるようになる。またこの頃から、本来違い鷹の羽であった家紋を対い蝶に変更したという。
 天正17年(1589年)に越前国敦賀郡2万余石を与えられ敦賀城主となる。吉継は蜂屋頼隆の築いた敦賀城を改修したと伝わるが、吉継の前に豊臣秀勝が城主であり、天守は秀勝時代に完成していた説もある。
 文禄元年(1592年)から始まる秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを務めてその手腕を発揮し、勲功を立てている。
 文禄3年(1594年)には草津に湯治に赴いており、直江兼続に宛てて「眼相煩い候間、慮外ながら印判にて申し上げ候」との書状を送っている。慶長3年(1598年)6月16日の豊臣秀頼の中納言叙任の祝いには病をおして参列し、慶長4年(1599年)には神龍院梵舜と女能を見物しており、病状の好転がうかがえる。
 慶長5年(1600年)、家康の杉討伐軍に3,000の兵を率いて参加するべく領国を立ち、途中で石田三成の居城である佐和山城へと立ち寄る。吉継は三成と家康を仲直りさせるために三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとしたが、そこで三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられる。これに対し吉継は、3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得するが、三成の固い決意を知り熱意にうたれると、敗戦を予測しながらも息子達と共に三成の下に馳せ参じ西軍に与した。
 西軍首脳の1人となった吉継は敦賀城へ一旦帰還し、東軍の前田利長を牽制するため越前国・加賀国における諸大名の調略を行った。9月、吉継は三成の要請を受けて脇坂安治,朽木元綱,小川祐忠,戸田勝成,赤座直保らの諸将を率いて美濃国に進出する。そして9月15日(10月21日)、東西両軍による関ヶ原の戦いに至った。吉継は病の影響で後方にあって軍を指揮し、午前中は東軍の藤堂高虎,京極高知両隊を相手に奮戦した。正午頃、松尾山の小早川秀秋隊1万5,000人が東軍に寝返り大谷隊を攻撃するが、初めから小早川隊の謀叛に備えていた直属の兵600で迎撃し、更に前線から引き返した戸田勝成,平塚為広と合力し、兵力で圧倒する小早川隊を一時は500m押し戻し2,3回と繰り返し山へ追い返したという。その激戦ぶりは東軍から小早川の監視役として派遣されていた奥平貞治が重傷を負ったことからも伺える。しかし吉継が追撃を仕掛けたところへ、秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂,朽木,小川,赤座の4隊4200人が東軍に寝返り突如反転し大谷隊に横槍を仕掛けた。これにより大谷隊は前から東軍、側面から脇坂らの内応諸隊、背後から小早川隊の包囲・猛攻を受け防御の限界を超えて壊滅、吉継は自害した。享年42もしくは36。西軍の諸将の多くが戦場を離脱したにもかかわらず自害したのは、高台院の甥である秀秋に討たれることで、高台院への恩義に報いようとした結果の討死にではないかといわれている。自害した吉継の首は側近である湯浅五助の手により関ヶ原に埋められ、東軍側に発見されることはなかった。異説では切腹した吉継の首を家臣の三浦喜太夫が袋に包んで吉継の甥の従軍僧・祐玄に持たせて戦場から落とし、祐玄が米原の地に埋めたとも言われる。
 墓所は、居城のあった福井県敦賀町永賞寺に九輪の石塔、岐阜県関ケ原町にも湯浅隆貞の墓と隣接して石塔が設けられ、少なくとも2ヵ所に供養塔があり、また祐玄が首を持ちかえったとされる伝承に基づく首塚が滋賀県米原市下多良に残っている。

慶長2年(1597年)9月24日に豊臣秀吉や徳川家康らが伏見の大谷吉継邸を訪問した時は、病状の悪化した吉継の代わりに饗宴の対応を務めた。そして、この饗応の目的が、吉継の後継者として大学助をお披露目することにあったことも明らかである。翌慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると形見分けとして「鐘切りの刀」を受け取る。慶長4年(1599年)には家康の命令で失脚していた石田三成の内衆と共に越前表に出兵している。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは吉継と共に西軍に与し、北陸で前田勢を足止めした後、関ヶ原に移動。小早川秀秋の軍勢が西軍を裏切り、大谷隊はその攻撃を受けて奮戦するが、部隊は壊滅して父の吉継は自害した。吉治は敦賀に落ち延び再起を期そうとしたが、敦賀城の留守居も不穏な動きをしたため断念し、大坂に落ち延びたと軍記類に記されている。
 慶長19年(1614年)、大坂の陣が起こると招きに応じて大坂城に入城。吉治は豊臣方から100名の兵士を担当する隊長に任命されたという。慶長20年(1615年)5月、道明寺の戦いに参加。天王寺・岡山の戦いでは、真田信繁隊と前線で戦うが、越前福井藩の松平忠直軍との戦闘中、忠直家老の本多富正の配下により討たれ、戦死した。
 子の吉之は戦後帰農したとされる。

木下頼継 大谷泰重

 大谷吉継の次男とされるが、甥であるとも養子であるともいわれている。父や兄と共に豊臣秀吉の家臣として仕え、越前国内に2万5,000石の所領を与えられて、山城守を受領している。
 秀吉の寵愛を受けて、木下姓を名乗ることも許されたという。異説によると木下姓は木下吉隆の名跡を継いだことにより名乗ったともいう。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、父や兄と共に西軍に与した。父より700余の兵を預けられて、北陸口で前田利長の軍勢と戦う。関ヶ原本戦では、松尾山に陣取った小早川秀秋の寝返り攻撃を戸田重政と平塚為広とで食い止めたが、脇坂,赤座,朽木,小川ら北陸勢の寝返りと挟撃をうけて崩壊。吉継は自害する直前に戦場から落ちるよう指示を出しており、頼継は戦場を離脱して越前国で潜伏したが、同年のうちに病死したという。または関ヶ原で戦死したとも言う。

 経歴はほとんど分かっていないが、寛永3年(1626年)に息子の大谷重政が越前福井藩に出仕したことから、1600年代初頭から1610年代にはすでに成年に達していたものと思われる。兄とされる大谷吉治や重政の動向から推測すると、大坂の陣後に美作国に移ったと思われる。息子重政が越前藩に出仕した後の動向は定かでない。