<神皇系氏族>天孫系

A106:伊勢津彦命  伊勢津彦命 ― 大部八背 OB01:大部八背

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武蔵不破麻呂 武蔵武芝

 奈良時代の貴族。武蔵国足立郡出身。丈部直から武蔵宿禰へ昇格。武蔵国造。
 不破麻呂の最初の氏である丈部は東国に広く分布しており、軍事的部民と考えられている。「連」・「直」の姓を持つ東国の一族は、「丈部」を統率する地方の伴造と思われる。
 『続日本紀』巻第二十五によると、764年(天平宝字8年10月7日)の藤原仲麻呂の乱の功績を賞する位階昇進に際して、正六位下だった不破麻呂は外従五位下を授けられる。ただし、彼がどのような活躍をしたかについては、史書には記されてはいない。
 巻第二十八によると、767年(神護景雲元年8月29日)、近衛府の員外少将のまま、下総国の員外介を兼任。768年(同年12月6日)に他の丈部氏5人とともに武蔵宿禰の氏姓を賜り、2日後に武蔵国造となる。この時、道嶋嶋足も陸奥国大国造に任命される。さらに769年(神護景雲3年6月9日)上総員外介に任命される。
巻第二十九によると、769年(神護景雲3年8月5日)に従五位上に昇進した。
その後、773年(宝亀4年)の官符によると、左衛士員外佐となり、大和国の左保川の堤の修理を担当したという。
 『更級日記』には、衛士として都に上り、皇女とともに武蔵国に帰還し一国を宰領するまで出世したという竹芝の男の伝説が物語られているが、この主人公に武蔵宿禰不破麻呂の姿が色濃く反映されていると言われている。

 承平天慶の乱の遠因をつくったことで知られる。
 武蔵氏(姓は直)は出雲氏族に属する天孫系氏族で、武蔵国造家として代々足立郡司を務める一方で氷川神社を祀っていた。武芝の系統は元々丈部氏(姓は直)を称したが、神護景雲元年(767年)に藤原仲麻呂の乱で功労があった不破麻呂が一族と共に武蔵宿禰に改姓した。
 天慶2年(939年)2月、武蔵国へ新たに赴任した武蔵権守・興世王と同介・源経基が、赴任早々に収奪を目的とし足立郡内に進入してきた。そのため、足立郡郡司と武蔵国衙の判官代を兼ねていた武芝は「武蔵国では、正官の守の着任前に権官が国内の諸郡に入った前例はない」として、これに反対する。しかし2人の国司は武芝を無礼であるとして、財産を没収する。武芝は一旦山野に逃亡した後、平将門に調停を依頼した。
 将門の調停により興世王と武芝は和解したが、和議に応じなかった経基の陣を武芝の兵が取り囲み、経基は京に逃亡、将門謀反と上奏し承平天慶の乱の遠因となった。その後の武芝の消息は不明であるが、『将門記』では氷川神社の祭祀権を失ったとしている。これを国司による処分と見るか、将門に連座して討ち取られたものと見るかについて見解が分かれている。
 『将門記』では名郡司と評されている。長年公務に精勤し良い評判があり謗られるようなことはなかった。郡内の統治の名声は武蔵国中に知れ渡り、民衆の家には遍く蓄えがあったという。
 菅原孝標女が武蔵国で聞いたとして『更級日記』に登場する「たけしば」寺の伝説は、地方の小豪族から国造に昇った武蔵不破麻呂から武蔵武芝までの盛衰が一人の人物による伝説化して語られたものとする説がある。