<神皇系氏族>天神系

A231:饒速日命  饒速日命 ― 阿刀宇気麻呂 AT01:阿刀宇気麻呂

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安斗智徳 安斗大足

 天武天皇元年(672年)6月24日、吉野宮に隠棲していた大海人皇子は、近江の朝廷に対する戦いを決意し、兵を集めさせた東国に向かって出発した。このとき従う者は妻子と舎人20数人、女官10数人であった。智徳はその舎人の中にいたが、その後の乱の中で果たした役割については記録がない。
 天武天皇13年(684年)八色の姓の制定に伴い、阿刀連など50氏が宿禰の姓を与えられた。元明朝の和銅元年(708年)従五位下に叙爵している。
 壬申の乱後、『安斗智徳日記』を書き、そのごく一部が『釈日本紀』に引用された。ここでいう日記は今でいう回想録にあたると考えられている。智徳ら乱への参加者が書いた記録が、『日本書紀』で壬申の乱について執筆する際の材料になったと考える歴史学者が多い。 

 延暦7年(788年)空海は母方のおじで学者であった大足を頼って平城京に上京する。その後、延暦11年(792年)に空海が大学寮に入るまで、大足は空海に対して論語,孝経,史伝,文章などの個人指導を行った。延暦23年(804年)大足の援助により、第18次遣唐使の学問僧として空海の入唐を実現させた。
 また、大足は伊予親王の侍読も務めたが、その後の動静は明らかでなく、大同2年(807年)に発生した伊予親王の変に連座して失脚した可能性もある。 

安都雄足 安斗阿加布

 『続日本紀』や『日本書紀』などの正史には現れないが、8世紀の一次文書である『正倉院文書』や『東南院文書』にその名が多く見え、日本古代史研究において着目されてきた人物の一人である。
その生涯はその職務から大きく三期に分けて語られる。
 第1期は、天平19年(747年)6月 - 天平勝宝6年(753年)3月の期間である。この時期、雄足は造東大寺司関係の部署の事務を行。たとえば、当時小僧都であった良弁の命によって、天平19年3月、天平21年3月などに菩薩像八躯を作成したと思しきメモが残されており、この史料が雄足の足跡を知ることのできる初見史料である。
 第2期は、天平勝宝6年(754年)閏10月 - 天平宝字2年(758年)正月である。この期間、雄足は史生として越前国に出向き、東大寺の荘園を経営する専当国司として、桑原荘の荘園管理に携わっていた。ここで注目すべきは、東大寺所有の荘園を寺僧ではなく、越前国史生が経営していた点である。
 第3期は、天平宝字2年(758年)6月 - 天平宝字8年(764年)正月である。平城京に帰還した雄足は、多くの仕事を兼務し大変多忙。造東大寺司主典に任じられ、多くの「別当」を兼務した。いままでの研究で、造東大寺司写経所,東塔所,造物所,造石山寺所,法華寺造金堂所の5つの別当を勤めていたことが判明している。『正倉院文書』にも、一番多く彼の名前を見ることができる時期である。雄足の名前を見ることのできる最後の史料は天平宝字8年正月のものであり、これ以降、彼の名前が史料上あらわれることはない。この天平宝字8年正月という時期は、藤原仲麻呂の乱の直前であることから、藤原仲麻呂の没落と共に、造東大寺司主典を更迭されたという見方をされることが多い。これ以降の彼の消息は、一切不明である。 

 壬申の乱を起こした大海人皇子は、6月26日までにまず美濃国と伊勢国が味方についたことを知った。そこで伊勢朝明郡の郡家から、さらに東海(東海道)と東山(東山道)の軍を発するための使者を遣わすことにし、山背部小田と安斗阿加布が東海への使者になった。彼等は無事に任務を果たしたらしい。安斗阿加布については他に記録がない。
玄昉 善珠

 義淵に師事。養老元年(717年)遣唐使に学問僧として随行し入唐。先に新羅船で入唐していた智達・智通らと同じく、智周に法相を学ぶ、在唐は18年に及び、その間当時の皇帝であった玄宗に才能を認められ、三品に準じて紫の袈裟の下賜を受けた。約20年後の天平7年(735年)、次回の遣唐使の帰国に随い、経論5000巻の一切経と諸々の仏像を携えて帰国した。
 天平8年(736年)封戸を与えられた。翌天平9年(737年)、僧正に任じられて内道場(内裏において仏像を安置し仏教行事を行う建物)に入り、聖武天皇の母藤原宮子の病気を祈祷により回復させ、賜物をうけた。
 聖武天皇の信頼も篤く、吉備真備とともに橘諸兄政権の担い手として出世したが、人格に対して人々の批判も強く、天平12年(740年)には藤原広嗣が吉備真備と玄昉を排除しようと九州で兵を起こした(藤原広嗣の乱)。この乱は失敗に終わった。
 しかし、天平15年(743年)の孝謙天皇の即位後、藤原仲麻呂が勢力を持つようになると、天平17年(745年)筑紫観世音寺別当に左遷。翌天平18年(746年)任地で没した。  

 玄昉の子とする史書もあるが、善珠の生まれた723年当時玄昉は遣唐使として唐に滞在している最中である。大和国の出身。秋篠寺の開基とされている。法相六祖の1人。
 玄昉に師事して法相・因明に通じた。793年(延暦12年)比叡山文殊堂供養の堂達を、翌794年(延暦13年)には延暦寺根本中堂落慶の導師をつとめた。796年(延暦15年)には桓武天皇の命により故物部古麻呂のための法華経供養の導師をつとめた。797年(延暦16年)には皇太子安殿親王(後の平城天皇)の病気平癒祈願の功により僧正に任じられている。その後間もなくして75歳で没。奈良仏教の歴史の上で有数の著述家で、『唯識義燈増明記』,『唯識分量決』など20余りの著作が残る。