東条松平家

MT01:松平親氏  松平親氏 ― 松平義春 MT33:松平義春

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松平義春 松平忠吉

 義春名義の文書は大永3年(1523年)9月19日付で出した当時三河国幡豆郡に属した羽角村の羽角馬頭天王社宛の寄進状がある。義春は東条吉良領内にその所領もしくは知行を有していたことは考えられる。
 義春の主要な事績としては、「三河物語」等によれば、岡崎の松平宗家6代目の家督を桜井松平信定が長兄の信忠と争い、その嫡子清康から広忠の代まで係争を続けた間も常に宗家に忠節であったことが伝えられている。そして「三河物語」はさらに岡崎登城の際、道で行き会ったときは主従一同が互いに刀の反りをうたせて反目したほど仲が悪かったと伝える。同物語では、信定が病死すると前後して義春も亡くなったので、結局は何事も起きなかったとする。
 また、後代成立の諸書に松平義春が弘治2年(1556年)2月20日三河国額田郡の日近城の奥平貞直を攻めた際、戦死したと伝えるが、これは、嫡子忠茂の伝を誤ったものと現在では確定され、三河物語の記述の死没時期が相応しい。なお義春・忠茂父子は共に通称を甚太郎と称していたとされ、忠茂が若年で戦死したため義春一代の事績として誤伝されたと思われる。

 遠江国浜松城下に生まれる。天正9年(1581年)東条松平家の松平家忠が病死した後、その家督を継いで河国東条城1万石を領し、名を松平忠康と改める。天正10年(1582年)、駿河国沼津城4万石に転封される。
 徳川家康が関東へ移封されると、文禄元年(1592年)に武蔵国忍城主となり、元服して松平忠吉と改める。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで初陣を飾り、福島正則と先陣を争い、島津豊久を討ち取る等の功を挙げる。戦後、尾張清洲52万石を与えられた。
 慶長12年(1607年)、関ヶ原の戦いの折に負傷した傷がもとで江戸で死去、享年28。忠吉には嗣子がなく、清洲藩は弟の五郎太(義利、徳川義直)が後を継ぐことになる。また、同母兄の秀忠は彼の死を非常に悲しんだと言われている。墓所は東京都港区の増上寺、愛知県名古屋市千種区の性高院、同豊田市隣松寺に存在する。

 

 

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