<皇孫系氏族>開化天皇後裔

AK02:朝倉教景 〔開化天皇後裔〕日下部表米 ― 朝倉宗高 ― 朝倉教景 ― 朝倉孝景 AK03:朝倉孝景

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朝倉孝景(7代当主) 朝倉氏景

 長禄3年(1459年)8月11日、足羽郡和田荘での合戦で守護側の堀江利真(孝景の義兄),朝倉将景(孝景の叔父であり舅)らを敗死させ、守護代方を勝利に導くとともに、その地位を高める。また、和田での合戦の翌12日、甲斐常治が京で亡くなったため、相対的に孝景の影響力が強まった。
 応仁元年(1467年)に応仁の乱が勃発すると、孝景は主家の斯波義廉と協力して西軍として活躍する。御霊合戦,上京の戦い,相国寺の戦いなど主要合戦に参戦、伏見稲荷に籠もって西軍を苦しめた足軽大将・骨皮道賢を討ち取ったのも孝景である。
 ところが、孝景は魚住景貞を窓口として東軍の浦上則宗と密かに接触し、文明3年(1471年)5月21日、将軍・義政及び細川勝元から守護権限行使の密約をもらって東軍に寝返る。この寝返りにより東軍が圧倒的優位になり、応仁の乱は終息へ向かう。東軍陣営の権威を背景に、孝景は越前の実効支配による領国化を進める。当初は苦戦するも、やがて連勝を重ねて実力で越前一国をほぼ手中に収め、斯波氏に代わり越前守護に任じられる。しかし、甲斐敏光や二宮氏、元服して義寛と改名した松王丸らの反撃を受け、一時苦境に立たされる中、文明13年(1481年)、54歳で死去する。
 孝景は、公領や公家領・寺社領の押領を多く行ったため、当時の権力層である寺社,公家にとってはまさに仇敵だった。当時、寺社が得意としていた人々の信仰心を利用した呪殺目的の護摩祈祷も、改名など呪詛回避を熟知する孝景には通じず、甘露寺親長は、日記の中で孝景のことを「天下悪事始行の張本」と評している。

 応仁の乱では父と共に西軍に属していたが、東軍との寝返り交渉で父が越前へ下向、氏景は西軍に気取られないため人質として京都に残された。文明3年(1471年)5月21日に室町幕府から父へ越前守護職の確約を認める書状が届けられ、父が公然と東軍に寝返ると、6月8日に西軍陣営から抜け出し東軍の細川成之の屋敷へ移動、23日に越前へ下った。
 文明13年(1481年)、父の死により家督を継ぎ、3人の叔父経景,光玖,景冬と共に越前平定に尽力、襲封した年の9月15日には甲斐氏と戦って大勝している。朝倉氏は父の代に8代将軍・足利義政と細川勝元と手を組むことで斯波氏から領国越前を奪った下克上の典型例であった。氏景は主家に対抗する権威を以って朝倉氏の領国支配の安泰を図った。手始めとして氏景は仏教勢力である平泉寺と巧みに結びつくことで、宗教勢力の強い越前支配を図った。さらに美濃国の斎藤妙純の提案を受け入れ、かつては敵対関係にあった斯波義廉の子を擁立して、足利将軍家の連枝・鞍谷公方を継がせて足利義俊と名乗らせ、名目上は越前を鞍谷公方の領国とすることで、斯波武衛家の越前守護復帰の余地を奪った。
 氏景の奇策に斯波氏はおろか幕府も難色を示したが、朝倉氏の断行により既成事実化し、越前の実効支配に不可欠な大義名分を確保した。こうして父の代に手に入れた実質上の守護の座であったが、領国の実効支配を維持するために名目上の国主を足利氏の一門とし、傀儡とすることで朝倉氏の領国支配の大義名分を維持した。
 文明18年(1486年)7月4日、在任5年にして38歳で死去。

朝倉貞景 朝倉孝景(10代当主)

 わずか13,4歳の若年で家督を継いだため、家臣が勝手な行動をしたりしたという。
 明応2年(1493年)の明応の政変では細川政元に協力し、朝倉軍は将軍義材を捕らえている。ところが同年7月、義材が越中国放生津へ下向して越中公方を樹立すると、ただちにそのもとへ馳せ参じた。翌年10月、義材の上洛軍挙兵に呼応して加賀国より越前に攻め込んだ加賀の一向一揆や甲斐氏の軍勢と大野郡,坂井郡で交戦、勝利している。明応4年(1494年)に美濃で勃発した船田合戦には斎藤方として貞景自ら近江国柳ヶ瀬まで出陣、翌年の決戦にも朝倉軍を派遣、大勝している。
 明応7年(1498年)、前将軍・義材(義尹)が越中国から一乗谷に入り上洛の機会を窺う。貞景はこれを歓待するが上洛支援は断った。義尹は翌年上洛したが、六角氏の軍勢に敗北し、いったん周防国の大内氏を頼ることとなる。
 文亀3年(1503年)、一族内部で謀叛が起こるが、朝倉宗滴の尽力のもと、朝倉景豊を滅ぼす。翌年、加賀より攻め込んで来た朝倉元景を返り討ちし、家督を確実なものとした。
 永正3年(1506年)には越前に侵攻した加賀国・越中国・能登の一向一揆勢と戦い(九頭竜川の戦い)、これを駆逐するなどして内政,軍事においての朝倉氏の戦国大名化、越前領国化を成し遂げた。これ以後、孫の義景の時代である永禄10年(1567年)の堀江景忠の謀反までの60余年にわたって越前国内には大きな戦乱は無く、平和を享受して全盛期を迎えた。
 永正9年(1512年)3月25日、鷹狩りの途中に急死した。享年40。

 一門の朝倉宗滴の補佐を受けて、当時混乱の多かった周辺国の加賀・美濃・近江・若狭にしばしば出兵・侵攻し、各国の守護家や諸勢力に軍事的優位性、政治的影響力を見せ付け、代々対立してきた加賀一向一揆との和睦を成立させたと言われている。絶え間なく中央(京都)および周辺諸国情勢に煩わされたが、結果的に朝倉氏の勢力をさらに拡大するとともに、朝廷や幕府との繋がりをも深め、越前に更なる繁栄をもたらし、本拠・一乗谷城に京風の文化を華開かせた。
 軍事面においては、当主自らではなく一族の主なものを名代として派遣する例が多い。この制度が次代の義景の統治にも影響を及ぼすこととなる。統治面においては、守護斯波氏の下では同格であった国人衆などと呼ばれる諸勢力を完全に臣従下させるには至っていない。また、弟である朝倉景高と対立するという内紛もあった。経済面においては、周辺諸国への大軍派遣、朝廷や幕府に対する多額の献金等からの一乗谷の繁栄が見られた。また、豪商らが名物茶器を所持していたり、家臣らが京に書物を求めるなどの面も見られた。
 天文17年(1548年)3月22日に死去。波着寺への参詣の帰りに急死したという。享年56。16歳の嫡男である延景(のちの義景)が跡を継いだ。

朝倉義景 鳥羽阿君丸

 天文17年(1548年)に父・孝景が死去し、11代当主として家督を相続する。しかし幼少であったため、義景の祖父の弟にあたる朝倉宗滴が補佐した。宗滴死後、自ら政務を執るようになった。
 永禄8年(1565年)、13代将軍・足利義輝が三好義継,松永久秀らに暗殺されると、義輝の弟の足利義昭は朝倉家を頼って越前に逃れてくる。しかし当時加賀国の一向一揆衆に悩まされていた義景は義昭の上洛要請を拒否し、結果、義昭は台頭著しい織田信長を頼って美濃へと落ち延びる。織田信長を頼って上洛し将軍職に任じられた足利義昭であったが、次第に信長に対して不信感を露わにするようになっていった。
 一方、信長は将軍命令のもと再三上洛してこない朝倉義景に対し、ついに朝倉討伐を開始する。朝倉方は織田信長,徳川家康の連合軍相手に苦戦するが、背後の浅井長政が急遽朝倉方へと寝返ったため窮地を脱する。しかし、姉川の戦いでは、朝倉・浅井連合軍が織田・徳川連合軍に大敗を喫する。
 勢いに乗った信長は、武田信玄の死去もあって、本格的に朝倉征伐のための軍を起こし、迅速な信長の攻撃によって朝倉家は滅亡。義景自身も重臣の朝倉景鏡に裏切られて自害した。

詳細はWikipedia(朝倉義景)参照

 永禄5年(1562年)、義景と鞍谷嗣知の娘・小宰相(鞍谷氏)の長男として生まれる。義景にとっては初めての男子だったため、早くから世子として指名されたが、永禄11年(1568年)6月25日に死去した。享年7。『朝倉始末記』巻4などの軍記物によると、御サシという女性が世継の乳母になることで栄華を得ようとして授乳を担当した乳母を毒殺し、その影響から阿君丸も毒が原因で死亡したのではないかという説もあるが、年齢的に授乳期は過ぎているため、直接の影響があったかどうかは不明である。また阿君丸の死は朝倉氏の同族争いがあったのではないかともされており、朝倉氏は一族が多く、義景が死去したら一族の誰が後継者となるかで席次争いなどもあったとされる。
 義景はこれを機に失意に陥り、政務を放棄して鬱々とした生活を送ったとされている。

朝倉愛王丸 朝倉信景

 元亀元年(1570年)、朝倉義景の次男として生まれる。生母は側室で斎藤兵部少輔の娘・小少将。異母兄で世子であった阿君丸は早世していたため、生まれると同時に義景の世子に指名された。義景からは溺愛されたといわれる。
 天正元年(1573年)8月、一乗谷城の戦いで父が織田信長に敗れた後、父や母に従って大野の賢松寺に落ち延びたが、8月20日に父は一族の朝倉景鏡の裏切りによって自害した。
 その後、愛王丸は母,祖母(義景の母)と共に捕縛され、信長によって岐阜に送られる途上の越前南部の今庄で、信長の密命を受けた護送役の丹羽長秀によって殺害された。享年4。

 朝倉氏の滅亡時、難を逃れて逃亡し、本願寺教如の弟子となり江戸へと移り住んだ。寛永5年(1628年)、桜田外に遍立寺(朝倉山・一乗院)を建立して、本願寺宣如より本尊を譲り受けて住職となった。承応元年に82歳で入定した。
 なお、信景の名は朝倉氏の家系の中にその名を見ることができない。しかし、江戸時代に実在した人物であり、本願寺とも姻戚関係であった朝倉氏が本願寺との深い繋がりがあったことは事実である。義景の子であったかは疑わしいが、朝倉氏の縁戚の人物であることは間違いないと思われる。

朝倉景総 朝倉教景(宗滴)

 庶腹の出であったため、兄でありながら常に正妻(桂室永昌)の子である異母弟の教景(孝景の五男)の下座に置かれた。これを恨み、文明16年(1484年)7月12日、相撲場で教景を殺害した。教景を養子としていた叔父の朝倉光玖は激怒し、景総は南条郡の宅良慈眼寺へ逃げ、剃髪して許しを請うたという。
 その後、光玖の怒りが解けたのか、一乗谷に出仕するようになり、延徳3年(1491年)の管領細川政元の越後国下向時の見送り役や、明応5年(1496年)の美濃国の船田合戦への派遣軍の大将役などを務めている。また、娘を従弟で敦賀郡司家の朝倉景豊に嫁がせている。しかし、桂室永昌との関係は修復されず、やがて越前国を出奔する。その後、京都に出て細川政元に仕え、名乗りも朝倉弾正忠元景に替える。
 文亀3年(1503年)には朝倉景豊,教景(宗滴)らと共謀し、主家である甥・貞景に対する攻撃の計画を企てるが、教景の密告で計画が漏洩、景豊は貞景に本拠の敦賀を攻められ自刃した。近江国から出兵していた景総はこの報を聞き退却し、その後は美濃,飛騨国を経て加賀国に入った。加賀で反朝倉の兵を募った景総は、翌永正元年(1504年)8月、加賀一向一揆の協力のもと越前坪江に出陣し、貞景に決戦を挑むが敗れ、能登国に逃亡した。
 永正2年(1505年)4月4日、能登春木の斎藤館で病死した。余六、地蔵院という2人の男児がいたようである。

 生年に関しては文明6年(1474年)とする説もある。仮名を父・孝景と同じく小太郎と称していたことや、「景」の字が諱の下にあることなどから、嫡男として遇されていたと考えられる。宗滴は貞景の時代から死去するまで事実上の朝倉家当主として、政務,軍事を執行していたとされる。
 文亀3年(1503年)、金ヶ崎城主として敦賀郡司に就き、以後朝倉家の軍務を取り仕切ることとなった。永正3年(1506年)、加賀の一向一揆が越前に飛び火と宗滴を総大将とする朝倉・他門徒の連合軍が九頭竜川一帯で対峙した。九頭竜川流域各地で戦が繰り広げられた。8月6日の中ノ郷の戦いを期に、一向宗側が総崩れとなり朝倉軍は勝利を収めた。
朝倉家の栄華を築く
 大永5年(1525年)、美濃の内乱に介入した浅井亮政を牽制するため、六角氏と協力し小谷城へ出張る。しかも、5ヶ月に亘って小谷城の一角に金吾嶽を増築、在陣し、六角氏と浅井氏の調停役を務めた。このとき教景は亮政をよく助けたため、以後は朝倉・浅井家は固い絆で結ばれていくことになる。
 大永7年(1527年)に宗滴は養子の朝倉景紀に敦賀郡司の職を譲っているが、軍奉行は引き続き務めた。また、若年で宗家当主となった義景をよく補佐した。
 天文24年(1555年)7月21日、越後上杉氏の長尾景虎に呼応して、加賀一向一揆を討つべく加賀に出陣し南郷,津葉,千足の3城を1日で全て落としたが、8月に一揆側も朝倉軍に反撃し一進一退となる。宗滴は陣中で病に倒れ、一族の朝倉景隆に総大将と朝倉軍を任せて一乗谷に帰還した。宗滴は手厚い看病を受けたが、9月8日に一乗谷にて病死した。宗滴の死は川中島の戦いの和睦という形で影響を与えている。享年79。

蒲庵古渓 朝倉景恒

 一族の重鎮だった朝倉宗滴の一周忌に際してその死を悼んでいることから、廃嫡され仏門に入ったと伝わる宗滴の実子が蒲庵古渓ではないかとする見方がある。
 出家して下野国足利学校で修学し、その後京都大徳寺の江隠宗顕に師事した。天正元年(1573年)、笑嶺宗訢の法を継ぐため、堺南宗寺から大徳寺の住持職となった。この際に堺時代に知り合った千利休から祝儀を受けている。同年、利休に「抛筌斎」の号を授けた。天正13年(1585年)の「利休居士」号創出にも関係するようだが、詳しいことは不明である。天正10年(1582年)、織田信長が本能寺の変で横死すると、利休らの依頼を受けて百ヶ日法要を行い、羽柴秀吉が信長の葬儀を行った際にも導師を務めた。
 天正11年(1583年)、大徳寺に総見院を開創し、翌12年(1584年)に秀吉が信長の菩提寺として天正寺の建立を企図したとき、建立事業を任された。しかし天正16年(1588年)、石田三成との衝突がきっかけで秀吉の勘気に触れ九州博多に配流となった。博多では神屋宗湛らと交流している。その後、千利休の援助により京へ戻り、天正19年(1591年)、豊臣秀長の葬儀の導師を務めるが、この年に発生した利休の切腹事件に絡んで、事件の発端となった利休の木像が大徳寺山門にまつられていた事件の責任をとらされた。その際、いたく立腹した秀吉が大徳寺の破却を試みるが、古渓が使者の前に立ちはだかり短刀で命を絶とうとしたため、秀吉は慌てて使者を引き上げさせたと言われている。晩年は洛北の市原にある常楽院に隠遁した。

 僧籍にあり松林院鷹瑳と名乗っていたが、永禄7年(1564年)に兄・景垙が陣中での口論の末自害した後に、還俗して敦賀郡司を務める。
 永禄9年(1566年)9月、足利義昭が越前国に入るとこれを敦賀に迎え、翌年11月まで歓待した。この時、義昭から中務大輔に任ぜられた。義昭が一乗谷に移ると、父と共に朝倉景鏡と席次を争う。永禄11年(1568年)7月、足利義昭が朝倉義景を見限り、織田信長を頼りに岐阜に向かう際、景恒は前波景当と共に2000の兵を率いて近江国まで義昭を警護した。
 その翌月、義景の命により若狭国に侵攻、小浜まで進み武田氏の跡継である武田元明を捕縛し一乗谷へ連行した。
 元亀元年(1570年)4月の織田信長の越前侵攻の際、越前金ヶ崎城に篭城するも4月26日に織田軍の猛攻を受け、兵力差もあったことから信長の降伏勧告を受け入れ開城する。そのため他の一門衆から「不甲斐無し」と非難され、永平寺に遁世し失意の中、9月28日に死去した。