| AK02:朝倉教景 | 日下部表米 ― 朝倉宗高 ― 朝倉教景 ― 朝倉孝景 | AK03:朝倉孝景 | ● |


| リンク |
| 朝倉孝景(7代当主) | 朝倉氏景 |
|---|---|
|
長禄3年(1459年)8月11日、足羽郡和田荘での合戦で守護側の堀江利真(孝景の義兄),朝倉将景(孝景の叔父であり舅)らを敗死させ、守護代方を勝利に導くとともに、その地位を高める。また、和田での合戦の翌12日、甲斐常治が京で亡くなったため、相対的に孝景の影響力が強まった。 |
応仁の乱では父と共に西軍に属していたが、東軍との寝返り交渉で父が越前へ下向、氏景は西軍に気取られないため人質として京都に残された。文明3年(1471年)5月21日に室町幕府から父へ越前守護職の確約を認める書状が届けられ、父が公然と東軍に寝返ると、6月8日に西軍陣営から抜け出し東軍の細川成之の屋敷へ移動、23日に越前へ下った。 |
|
朝倉貞景 |
朝倉孝景(10代当主) |
|
わずか13,4歳の若年で家督を継いだため、家臣が勝手な行動をしたりしたという。 |
一門の朝倉宗滴の補佐を受けて、当時混乱の多かった周辺国の加賀・美濃・近江・若狭にしばしば出兵・侵攻し、各国の守護家や諸勢力に軍事的優位性、政治的影響力を見せ付け、代々対立してきた加賀一向一揆との和睦を成立させたと言われている。絶え間なく中央(京都)および周辺諸国情勢に煩わされたが、結果的に朝倉氏の勢力をさらに拡大するとともに、朝廷や幕府との繋がりをも深め、越前に更なる繁栄をもたらし、本拠・一乗谷城に京風の文化を華開かせた。 |
|
朝倉義景 |
鳥羽阿君丸 |
|
天文17年(1548年)に父・孝景が死去し、11代当主として家督を相続する。しかし幼少であったため、義景の祖父の弟にあたる朝倉宗滴が補佐した。宗滴死後、自ら政務を執るようになった。 詳細はWikipedia(朝倉義景)参照 |
永禄5年(1562年)、義景と鞍谷嗣知の娘・小宰相(鞍谷氏)の長男として生まれる。義景にとっては初めての男子だったため、早くから世子として指名されたが、永禄11年(1568年)6月25日に死去した。享年7。『朝倉始末記』巻4などの軍記物によると、御サシという女性が世継の乳母になることで栄華を得ようとして授乳を担当した乳母を毒殺し、その影響から阿君丸も毒が原因で死亡したのではないかという説もあるが、年齢的に授乳期は過ぎているため、直接の影響があったかどうかは不明である。また阿君丸の死は朝倉氏の同族争いがあったのではないかともされており、朝倉氏は一族が多く、義景が死去したら一族の誰が後継者となるかで席次争いなどもあったとされる。 |
|
朝倉愛王丸 |
朝倉信景 |
|
元亀元年(1570年)、朝倉義景の次男として生まれる。生母は側室で斎藤兵部少輔の娘・小少将。異母兄で世子であった阿君丸は早世していたため、生まれると同時に義景の世子に指名された。義景からは溺愛されたといわれる。 |
朝倉氏の滅亡時、難を逃れて逃亡し、本願寺教如の弟子となり江戸へと移り住んだ。寛永5年(1628年)、桜田外に遍立寺(朝倉山・一乗院)を建立して、本願寺宣如より本尊を譲り受けて住職となった。承応元年に82歳で入定した。 |
|
朝倉景総 |
朝倉教景(宗滴) |
|
庶腹の出であったため、兄でありながら常に正妻(桂室永昌)の子である異母弟の教景(孝景の五男)の下座に置かれた。これを恨み、文明16年(1484年)7月12日、相撲場で教景を殺害した。教景を養子としていた叔父の朝倉光玖は激怒し、景総は南条郡の宅良慈眼寺へ逃げ、剃髪して許しを請うたという。 |
生年に関しては文明6年(1474年)とする説もある。仮名を父・孝景と同じく小太郎と称していたことや、「景」の字が諱の下にあることなどから、嫡男として遇されていたと考えられる。宗滴は貞景の時代から死去するまで事実上の朝倉家当主として、政務,軍事を執行していたとされる。 |
|
蒲庵古渓 |
朝倉景恒 |
|
一族の重鎮だった朝倉宗滴の一周忌に際してその死を悼んでいることから、廃嫡され仏門に入ったと伝わる宗滴の実子が蒲庵古渓ではないかとする見方がある。 |
僧籍にあり松林院鷹瑳と名乗っていたが、永禄7年(1564年)に兄・景垙が陣中での口論の末自害した後に、還俗して敦賀郡司を務める。 |