武芸が朋輩に秀で、後代の模範となるべく、当時の長谷旦倉朝廷(雄略朝)から健部君姓を与えられた。のちに人上の時代に阿保朝臣姓への復姓を願い出て許されている。 |
天平宝字3年(759年)在唐中の遣唐大使・藤原清河を帰国させるための迎入唐使が派遣されるが、人上は録事としてこれに従い渡唐する。天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱では孝謙上皇側に加勢したらしく、乱後に外従五位下に昇叙されると共に、公姓から臣姓に改姓している。称徳朝では因幡掾・図書助を務め、この間の神護景雲2年(768年)内位の従五位下に叙せられた。 光仁朝では図書助・勅旨員外少輔と京官を歴任し、宝亀9年(778年)には第16次遣唐使と共に来日した唐使に対する労問を左少弁・藤原鷹取と共に行っている。 天応元年(781年)勅旨少輔に昇格したのち、翌天応2年(782年)武蔵介、延暦5年(786年)武蔵守と桓武朝初頭は武蔵国司を務め、この間の延暦3年(784年)には従五位上に叙せられると共に、建部朝臣から阿保朝臣に改姓を許されている。 延暦9年(790年)大学頭として京官に復すと、延暦15年(796年)陰陽頭と桓武朝半ばは京官を務める一方、播磨守も兼帯した。延暦20年(801年)8月15日卒去。
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源経基に従い、天慶3(940)年の武蔵武芝討伐で軍功を挙げる。 |