<皇孫系氏族>景行天皇後裔

TE04:建部詮秀  建部穂並乃君 ― 建部光頼― 建部詮秀 TE05:建部高光



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建部高光 建部光重

 はじめ秀栄、後に高光を名乗ったが、若年の頃から僧形となり寿徳を称した。
 父・秀清は六角氏と織田信長の合戦で討ち死に、兄・秀直は六角義治に仕えたが、駒井某に殺害されている。一説には兄の仇を取るべく駒井某を探し出し、建部大社の祭礼の日に近江八幡で討ち果たし、その勇名によって信長に召し抱えられたという。織田家では近江守山に500石を領した。
 ところが、織田氏へ仕官後は主に吏僚として活躍した。はじめ、織田家臣・中川重政に属し、元亀2年(1571年)に重政の代官として常楽寺にあり、柴田勝家の代官と紛争を起こしたことがあった。のち、丹羽長秀の配下に転じたようで、若狭国の小浜郡代として小浜城に入り、北陸の陸路・海路の物資集散の中継地点の代官職をこなした。
 やがて羽柴秀吉にその才を認められ、本能寺の変で織田信長が討たれると、秀吉配下に転じた。物資の荷扱いや兵糧・弾薬などの管理に長けていたため、秀吉の蔵入地である摂津国尼崎3万石の代官に任命し、大坂の西の備えとして尼崎城と尼崎港の管理を命じた。天正15年(1587年)の九州征伐では、小西隆佐らと共に豊臣軍の補給を担当。中継基地である尼崎には莫大な人員・物資が集められたが、寿徳は混乱なく任を果たした。
 文禄元年(1592年)の文禄の役では名護屋城普請の奉行に名を連ねる。慶長3年(1598年)には長束正家の下で越前国検地の奉行の一人として働いた。同年(1598年)の秀吉死後も引き続き尼崎郡代を務め、また豊臣秀頼の近習としても数えられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いには嫡男・光重が西軍として参加したが、戦後に池田輝政の取り成しで改易を免れ、所領と尼崎郡代職も安堵された。慶長12年(1607年)に死去。71歳であったという。

 父・寿徳の摂津尼崎郡代を継ぎ、豊臣秀吉・秀頼父子に仕えた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、長宗我部盛親,毛利秀元らと富田信高の守る伊勢安濃津城攻めに加わり、所領(700石)を一時没収されたが、義父・池田輝政の取り成しで赦された。慶長9年(1604年)、秀頼の命により奉行として吉野水分神社を完成させた。慶長15年(1610年)、33歳で没した。 徳川家康の特別の計らいにより、わずか8歳の政長が郡代を継いだ。 
建部政長 建部政周

 摂津国尼崎藩主、播磨国林田藩初代藩主。慶長15年(1610年)、豊臣政権下で尼崎郡代700石であった父の死去により家督を継ぐ。慶長19年(1614年)からの大坂の陣においては、池田利隆・忠継兄弟の幕下で戦功を挙げ、元和元年(1615年)7月21日、伯父の池田重利と共に摂津川辺郡・西成郡尼崎藩1万石を与えられ大名に取り立てられた。元和3年(1617年)9月11日、宗主である姫路藩主・池田家の転封により播磨林田へ移封となる。
 元和4年(1618年)、明石城普請手伝、元和5年(1619年)の福島正則改易の城受け取り、寛永17年(1640年)の池田輝澄改易の城受け取りを務めた。藩政では、林田川の治水工事や民政などに尽力した。寛文元年(1661年)12月28日、丹波守に叙任する。
 寛文7年(1667年)8月28日、家督を3男の政明に譲って隠居し、寛文12年(1672年)4月18日に70歳で死去した。墓所は京都市北区紫野の大徳寺芳春院。

 はじめは建部光成の養嗣子となり、その養女と結婚していた。しかし、元禄16年(1703年)2月29日に兄の政辰が病弱により廃嫡されたため、本家に戻って世子となる。正徳5年(1715年)、父の死去により跡を継いだ。享保17年(1732年)9月23日、長男・政民に家督を譲って隠居し、勝隠と号した。宝暦7年(1757年)11月20日、84歳で死去した。墓所は京都市北区紫野の大徳寺芳春院。
建部政世

 第9代藩主・建部政和の長男だが、祖父の第8代藩主・建部政醇の3男とされた。
文久3年(1863年)4月18日、父・政和の死去により、家督を継いだ。慶応3年(1867年)12月20日、上洛。明治元年(1868年)1月15日、新政府から華頂宮博経親王などの警備を命じられる。また、戊辰戦争では新政府側に与して姫路藩征伐に参加した。明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還で藩知事に就任し、明治4年(1871年)8月18日、廃藩置県により免官となる。明治5年7月3日、叔父・揆に家督を譲った。明治10年(1877年)6月16日、24歳で死去した。墓所は京都市北区紫野の大徳寺芳春院。