| TE04:建部詮秀 | 建部穂並乃君 ― 建部光頼― 建部詮秀 | TE05:建部高光 | ● |


| リンク | {G853}{G854}{F611}{G124} |
| 建部高光 | 建部光重 |
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はじめ秀栄、後に高光を名乗ったが、若年の頃から僧形となり寿徳を称した。 |
父・寿徳の摂津尼崎郡代を継ぎ、豊臣秀吉・秀頼父子に仕えた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、長宗我部盛親,毛利秀元らと富田信高の守る伊勢安濃津城攻めに加わり、所領(700石)を一時没収されたが、義父・池田輝政の取り成しで赦された。慶長9年(1604年)、秀頼の命により奉行として吉野水分神社を完成させた。慶長15年(1610年)、33歳で没した。 徳川家康の特別の計らいにより、わずか8歳の政長が郡代を継いだ。 |
| 建部政長 | 建部政周 |
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摂津国尼崎藩主、播磨国林田藩初代藩主。慶長15年(1610年)、豊臣政権下で尼崎郡代700石であった父の死去により家督を継ぐ。慶長19年(1614年)からの大坂の陣においては、池田利隆・忠継兄弟の幕下で戦功を挙げ、元和元年(1615年)7月21日、伯父の池田重利と共に摂津川辺郡・西成郡尼崎藩1万石を与えられ大名に取り立てられた。元和3年(1617年)9月11日、宗主である姫路藩主・池田家の転封により播磨林田へ移封となる。 |
はじめは建部光成の養嗣子となり、その養女と結婚していた。しかし、元禄16年(1703年)2月29日に兄の政辰が病弱により廃嫡されたため、本家に戻って世子となる。正徳5年(1715年)、父の死去により跡を継いだ。享保17年(1732年)9月23日、長男・政民に家督を譲って隠居し、勝隠と号した。宝暦7年(1757年)11月20日、84歳で死去した。墓所は京都市北区紫野の大徳寺芳春院。 |
| 建部政世 | |
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第9代藩主・建部政和の長男だが、祖父の第8代藩主・建部政醇の3男とされた。 |