<神皇系氏族>地祇系

SY04:諏訪敦光  諏訪有員 ― 諏訪有信 ― 諏訪敦光 ― 知久信貞 SY08:知久信貞


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知久信貞 知久敦貞

 知久姓の初見は、諏訪大社大祝・諏訪敦光の子・敦俊が知久沢に住み、「知久十郎左衛門尉」と記載されたことによるが、敦俊の養子となった知久信貞が知久家系図上の初代となる。信貞は知久右衛門尉を称し武芸に長じ、なかでも射術に妙を得ていた。『吾妻鏡』にも鎌倉将軍・宗尊親王の選に応じて射芸を度々行ったことがみえている。その後、文永寺の弘安6年(1283年)の紀年銘をもつ石造五輪塔に神敦幸の名が刻されており、敦幸は知久氏系図にみえる信貞の子であろうとされている。
 清和源氏満快流とする説では、信貞は中津頼継の子で中津氏は満快の曾孫である為公の子の為衡(中津乗太郎)を祖としていることによる。一方他田氏の末とする説では、信貞は中津頼継の猶子で実父は他田信隆としている。  

 知久敦貞は尹良親王の下で活躍したと伝えられるも個々の事跡に関しては資料的な裏づけを欠く。この時期、尹良親王との関係から、家紋をそれまでの「梶の葉紋」から「御所車」に改めたと伝えている。 
知久頼為 知久頼元

 知久頼為と子の頼元の代に周辺の諸豪族を支配下に置き、知久氏は拡大期を迎える。また築城年は不明ながら神之峰城を新たに築城し、本拠地を知久平城から移転させている。特に頼元の代には飯田城を拠点とする坂西氏を圧迫しつつ、上野の座光寺氏を支配下におさめ、勢力を大きく拡大させている。
 天文11年(1542年)、甲斐の武田晴信と信濃上伊那郡の高遠頼継が結び、信濃諏訪郡の諏訪頼重を滅ぼす。諏訪氏滅亡後に武田氏と高遠頼継は敵対し、頼継が敗れると諏訪郡は武田の領国となる。さらに、天文14年(1545年)には高遠合戦で高遠城が落ちて頼継が没落すると、上伊那郡も武田氏の領国となり、この時期に知久氏も武田氏に臣従したとする説もあるが、知久平とは天竜川を挟んだ対岸に位置する鈴岡小笠原家(小笠原信定)が独立を維持していたことから、まだ下伊那には支配が及んでいないとする見方が有力となっている。 

 鈴岡小笠原家の鈴岡城を落とした武田氏に対し、下伊那の諸豪族はほとんどが恭順したが、知久頼元は臣従を拒否、座光寺貞信らと共に神之峰城に籠城する。しかし武田氏の先鋒・秋山信友の攻撃を受けて落城する。捕縛された頼元と貞信は甲斐へ護送され、河口湖の鵜の島へ幽閉され、天文24年(1555年)5月に船津(富士河口湖町船津)において処刑されている。残された一族は知久遠重のように武田氏に臣従する者と他国(主に東海から関東各地)に散る者に分かれ、知久頼氏(頼元の次男あるいは孫)は牢人となり、徳川氏に身を寄せる。 
知久頼氏 知久則直

 天正10年(1582年)3月の織田・徳川連合軍による甲州征伐で武田氏が滅亡し、同年6月に本能寺の変が発生すると、甲斐・信濃をめぐる「天正壬午の乱」が発生する。甲府に出陣した家康に連動して諏訪表へ出陣した頼氏は、旧領の知久平を安堵されて、およそ30年ぶりに知久家は再興される。天正11年(1583年)6月に従四位大和守を叙任されている。
 その後も頼氏は徳川氏に従って各地を転戦し、佐久郡平定を進める依田信蕃に加勢し、天正13年(1585年)の第一次上田合戦にも徳川方の伊那衆として参陣しているが、同年、浜松にて家康の命により切腹させられている。『熊谷家伝記』には、頼氏が豊臣秀吉の疑を受けたこと、その際、頼氏の娘が東海地方に逃れ、土着したことが記載されている。頼氏の切腹を天正12年(1584年)11月、翌天正13年に嫡男・万亀丸(後の知久則直)が家康に赦免されたとし、切腹の原因を同年4月に秀吉に寝返った木曾義昌に内応したことが原因と推測する説もある。 

 天正6年(1578年)、知久頼氏の子として誕生。母は遠江国入野の木寺宮の娘。6歳の時、遠江浜松城で徳川家康に拝謁し、天正13年(1585年)の父の自殺後は菅沼定利、後に大久保忠世に預けられる。天正19年(1591年)、家康が上洛時に大久保氏の小田原城に寄った際に、廩米300俵で召し出され、江戸田安に屋敷を賜り小姓となる。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに供奉し、翌慶長6年(1601年)に伊那郡3000石を賜り、阿島陣屋を築く。
 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では伊那郡浪合関を守衛し、元和元年(1615年)の大坂夏の陣では松平乗寿軍に属し、枚方に布陣した。元和6年(1620年)、伏見城で徳川秀忠に拝謁した際、伊那郡浪合関,小野川関,帯川関,心川関を預地として託される。寛永21年(1644年)1月2日、死去。享年67。