| SY04:諏訪敦光 | 諏訪有員 ― 諏訪有信 ― 諏訪敦光 ― 知久信貞 | SY08:知久信貞 | ● |

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| 知久信貞 | 知久敦貞 |
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知久姓の初見は、諏訪大社大祝・諏訪敦光の子・敦俊が知久沢に住み、「知久十郎左衛門尉」と記載されたことによるが、敦俊の養子となった知久信貞が知久家系図上の初代となる。信貞は知久右衛門尉を称し武芸に長じ、なかでも射術に妙を得ていた。『吾妻鏡』にも鎌倉将軍・宗尊親王の選に応じて射芸を度々行ったことがみえている。その後、文永寺の弘安6年(1283年)の紀年銘をもつ石造五輪塔に神敦幸の名が刻されており、敦幸は知久氏系図にみえる信貞の子であろうとされている。 |
知久敦貞は尹良親王の下で活躍したと伝えられるも個々の事跡に関しては資料的な裏づけを欠く。この時期、尹良親王との関係から、家紋をそれまでの「梶の葉紋」から「御所車」に改めたと伝えている。 |
| 知久頼為 | 知久頼元 |
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知久頼為と子の頼元の代に周辺の諸豪族を支配下に置き、知久氏は拡大期を迎える。また築城年は不明ながら神之峰城を新たに築城し、本拠地を知久平城から移転させている。特に頼元の代には飯田城を拠点とする坂西氏を圧迫しつつ、上野の座光寺氏を支配下におさめ、勢力を大きく拡大させている。 |
鈴岡小笠原家の鈴岡城を落とした武田氏に対し、下伊那の諸豪族はほとんどが恭順したが、知久頼元は臣従を拒否、座光寺貞信らと共に神之峰城に籠城する。しかし武田氏の先鋒・秋山信友の攻撃を受けて落城する。捕縛された頼元と貞信は甲斐へ護送され、河口湖の鵜の島へ幽閉され、天文24年(1555年)5月に船津(富士河口湖町船津)において処刑されている。残された一族は知久遠重のように武田氏に臣従する者と他国(主に東海から関東各地)に散る者に分かれ、知久頼氏(頼元の次男あるいは孫)は牢人となり、徳川氏に身を寄せる。 |
| 知久頼氏 | 知久則直 |
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天正10年(1582年)3月の織田・徳川連合軍による甲州征伐で武田氏が滅亡し、同年6月に本能寺の変が発生すると、甲斐・信濃をめぐる「天正壬午の乱」が発生する。甲府に出陣した家康に連動して諏訪表へ出陣した頼氏は、旧領の知久平を安堵されて、およそ30年ぶりに知久家は再興される。天正11年(1583年)6月に従四位大和守を叙任されている。 |
天正6年(1578年)、知久頼氏の子として誕生。母は遠江国入野の木寺宮の娘。6歳の時、遠江浜松城で徳川家康に拝謁し、天正13年(1585年)の父の自殺後は菅沼定利、後に大久保忠世に預けられる。天正19年(1591年)、家康が上洛時に大久保氏の小田原城に寄った際に、廩米300俵で召し出され、江戸田安に屋敷を賜り小姓となる。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに供奉し、翌慶長6年(1601年)に伊那郡3000石を賜り、阿島陣屋を築く。 |