<神皇系氏族>天孫系

SW18:菅原知頼  土師身臣 ― 菅原古人 ― 菅原道真 ― 菅原知頼 ― 戸川秀安 SW20:戸川秀安


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戸川秀安 戸川達安

  秀安の父・定安は、宇喜多能家の妾腹の子で正実の養子となったともいわれている。天文3年(1534)、能家討死後、備後門田へ逃れた定安はまもなく死亡、秀安は美作の叔父・富川入道のもとで育てられ、天文12年(1543)頃、宇喜多直家が浦上宗景のもとに出仕するや、その近侍として仕え、姓を戸川と改めた。秀安は、はじめ正利と名乗り、直家をよく補佐してその創業を助けた。  
 永禄10年の明禅寺合戦、天正6年の播州上月城攻め、同9年には児島八浜合戦など数多くの戦陣を踏み功をたてた。
 天正3年(1575)、備中兵乱後は児島常山城を守り、知行二万二千石。同10年、嫡子・達安に家督を譲り引退するまで宇喜多家第一の長臣として国政を執った。同12年、肥後守に叙任し、豊臣秀吉から諱字をもらい秀安と名乗った。
 また出自について、家譜によれば、河野通信の後裔・稲葉通弘の4代の孫・富川正実が備中児島に住し、宇喜多能家に仕えた。その子・定安が富川を称し、孫の秀安が戸川に改めたともいう。

 永禄10年(1567年)、宇喜多氏家臣・戸川秀安の嫡男として生まれる。戸川氏は美作菅氏の一流だったとされる。

  天正7年(1579年)、備前辛川の役において13歳で初陣を飾り、小早川隆景を撃破。父・秀安の後を継いで児島常山城を守った。宇喜多家の侍大将として備中高松の陣をはじめ各地の合戦に出陣、朝鮮の役では加藤清正をオランカイ境に援け、小早川隆景とともに碧蹄館で明軍を打ち破った。
 当時の宇喜多氏は直家の没後、父の秀安も含めた宇喜多三老と呼ばれる重臣が、当主の秀家を後見する体制をとっていた。しかし、天正19年(1591年)に長船貞親が暗殺され、文禄元年(1592年)には、岳父でもある岡豊前守(家利,元忠)が病死し、直家時代の重臣が不在となったため、達安が国政を任されることになる。
 しかし、文禄3年(1594年)、突如として秀家からその座を解任された。これは秀家が達安より長船紀伊守を寵愛し、国政を任せたかったためと言われている。しかしこのことで達安は紀伊守と対立し、主君・秀家にも不満を抱くようになる。前田氏から豪姫の輿入れに際し、新たに取り立てられた新参家臣である中村次郎兵衛が秀家の信任を受けると、達安と秀家との溝はますます深まった。秀家や豪姫がキリシタンに関心を示すと、日蓮宗の信者が大半を占める宇喜多家中は動揺し、さらに紀伊守が急死するなど、家中の緊張は臨界点に達する。
 慶長5年(1600年)1月、宇喜多家中でお家騒動が発生した(宇喜多騒動)。これは前年に死去した長船紀伊守の後を継いで国政を担った中村次郎兵衛に対して、達安が宇喜多詮家や岡越前守とともに反感を持っており、一触即発の事態にまで至ったものである。しかし、徳川家康の調停があって宇喜多氏を退去し、家康の家臣となった。同年の関ヶ原の戦いでは東軍に与して、前哨戦の木曽川・合渡川の戦いに一番槍の功を立て、本戦も戦功を挙げた。この際に加藤嘉明に陣借りしたともいわれる。また、早島戸川氏に伝わる伝承によれば、石田三成の重臣である島清興を討ち取ったともいい、その際に持ち帰ったとされる清興の兜が久能山東照宮博物館に所蔵されている。戦後、備中庭瀬に3万石を与えられた。大坂の陣にも参陣して戦功を挙げ、徳川家臣として重用され、江戸城内の御伽衆に加えられ、戦陣体験を若い旗本に伝えたという。
 元和5年(1619年)、福島正則が改易された際、広島城に向かい永井直勝,安藤重信と共に三奉行としてその後の処理を担当した。
 寛永4年(1628年)12月25日に死去。享年62。次男の正安が跡を嗣いだ。長男に平助(一斎)がいたことが分かっているが、廃嫡されている。また、3男の令安,4男の安尤,5男の安利は旗本としてそれぞれ分家を興している。現在、徳川美術館に所蔵されている短刀「戸川志津」の所持者。 

戸川達富 戸川達索

 備中庭瀬藩の第3代藩主・安宣の次男として生まれた。延宝3年(1675年)3月23日に4代藩主で兄の安風より1000石を分知され、旗本となった。ただしこの時は双方とも幼年であり、兄弟の意思ではない。
 延宝7年(1679年)に兄の安風が9歳で死去したことにより、大名戸川家は無嗣改易となった。しかし幕府により達安をして戸川家の名跡存続が許され、4千石を加増されて5千石の大身旗本・交代寄合として戸川宗家の名跡を相続した。所領の撫川に撫川陣屋を設けた。
 天和3年(1683年)10月、幕府により庭瀬の一郡を召し上げられ、替地として小田郡の宇戸谷村・上高末村ならびに川上郡の二ヶ(仁賀)村・佐屋村・九名村・大津寄村・高山村を与えられた。
 曽祖父の達安の時代から、戸川家の江戸屋敷は溜池を上屋敷、麻布を下屋敷と定められていたが、元禄10年(1697年)に幕府からの屋敷替えの命により溜池の屋敷が召し上げとなった。代替として、四谷内藤宿に屋敷を与えられた。これにより、麻布を上屋敷、四谷内藤宿を下屋敷とした。
 宝永5年(1708年)1月11日、定火消となり、正徳5年(1715年)3月11日に職を辞した。享保14年(1729年)、江戸にて病没。

 備中撫川の交代寄合・達富の長男として生まれた。母は本堂玄親の娘。享保14年(1729年)、父の死去により家督を相続した。
 享保17年(1732年)、享保の飢饉により自身の知行領内も被害が出たため、領民救済策として年貢率を4割5分(2471石)から2割3分7厘(1189石)に減免しつつ、幕府に請いて1000両の拝借金を嘆願した。また領内の有力者である大賀喜右衛門にも金策の相談をするなど、手立てを尽くした。
 延享4年(1747年)5月15日、大番頭に就任し、同年12月19日に従五位下・土佐守に叙任された。寛延元年(1748年)、大番頭として大坂在番(大坂城の警備)中に急逝した。跡目は長男の達恒が継いだ。

 

戸川達敏 戸川達本

 讃岐高松藩6代藩主・松平頼真の弟である松平頼周の子として生まれる。弘化4年(1847年)、戸川達寛の末期養子となり家督を相続する。慶應4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いの直後に新政府に帰順を表明。同年5月27日に新政府から朝臣(中大夫)を賜る。同年6月、分家で隠居の身である戸川達本が新政府に帰順すべく長男・達穀を隠居にして次男・達利に家督相続させたい旨を達敏に願い出たため、依頼に応じ達利を連れて江戸に下向し、新政府の弁事(総裁局の庶務官)に嘆願書を提出した。
 明治2年(1869年)、版籍奉還により現米支給(給与制)となり、士族・現米150石の下賜となった。同時に江戸屋敷が新政府により接収された。
 明治4年(1871年)、廃藩置県の際に家臣56人に5年分の生活扶助金を交付(旗本召抱の家臣は士族に編入されなかったため)して高松に帰郷し隠棲した。跡目は長男の眞達が継ぎ、撫川に戻って旧臣で撫川村長をしていた宮田来治の家に身を寄せていたが、24歳で病没した。 

 先代・達証の長男として生まれる。天保7年(1836年)7月、父の隠居により家督相続。
 天保14年(1843年)4月、日光社参で徳川家慶の供回りをする。弘化2年(1845年)1月、御使番。同年12月、布衣を許される。安政2年(1855年)5月、現在の江戸城乾門の場所にあった吹上の上覧所で馬揃えと馬術を披露し、徳川家定より酒・赤飯を賜る。同年12月、小普請組支配。安政6年(1859年)12月、小姓組番頭と諸大夫となる。
 文久2年(1862年)10月、家督を達穀に譲り、寄合となる。慶應4年(1868年)、新政府に帰順すべく、歩兵指南役と将軍警護役を務め幕府に近い立場にあった長男・達穀を隠居にして次男・達利に家督相続させたい旨の嘆願書を、新政府大総督府参謀だった西郷隆盛へ提出している。また同じ旨を宗家の戸川達敏に伝え、達利を連れて江戸に下向して新政府の弁事(総裁局の庶務官)に嘆願書を提出するよう依頼した。
 明治16年(1883年)3月11日、妹尾にて病没した。 

戸川重明 戸川安聡

 小出重堅の次男として生まれ、戸川安尤の養子となった。慶安4年(1651年)書院番士になる。のちに御先鉄砲頭となり布衣の着用を許される。
 承応3年(1654年)、東高梁川の氾濫の余波を受け領内の年貢米は50石という著しい損害を被った。知行地の早島は、当時干潟の広がる海沿いの地であるため、収入の増微を目指し新田開発に勤しんだ。主なもので早島西方の早島新田,早島南方の久々原新田,葭野新田,早島大新田などである。そのおかげで元禄2年(1689年)には、家臣への支給米を知行高の30%から35%に増やしている。
 元禄8年(1695年)、江戸屋敷が類焼により焼失した。
 元禄15年(1702年)3月に隠居し、跡目は子の安貞に継がせた。また、幕府より隠居料として米300俵を与えられる。正徳5年(1715年)10月28日没。

 先代・安晴の子として生まれ、父の死により家督を相続した。正室は松平忠周の娘で、継室も松平忠周の娘。
 安晴時代に起こった江戸屋敷焼失や旱魃,水害に加えて、商品経済発達による物価上昇により早島領の財政が急速に悪化したため財政再建が急務であったが、享保17年(1732年)の享保の大飢饉により財政がさらに悪化し、幕府から600両の貸与金を受けている(しかし、享保の大飢饉では庄屋や年寄の努力により餓死者を一人も出さなかったという)。
 晩年の宝暦4年(1754年)には、干拓地における国境の線引きについて村民が高松領(岡山市高松、旗本・花房氏7220石の飛地)の箕島村(岡山市箕島)民(宝暦6年(1756年)には妹尾戸川家領・妹尾村(岡山市妹尾)民も加わる)と共に幕府へ訴え出て、岡山藩と争うことが起こった(この争いは安熈時代まで続いた)。
 江戸では、関東川々普請奉行や小普請組支配を勤めた。宝暦5年6月8日没。跡目は子の安泰が継いだ。 

戸川安熈 戸川安悌

 早島戸川家5代・安聡の7男として生まれ、生後間もなく実兄・安泰の死により家督を相続した。安聡時代に村民が高松領の箕島村,民と共に幕府へ訴え出て岡山藩と争った、干拓地における国境の線引きについての訴訟(宝暦国境争論)について、宝暦8年(1758年)6月に裁決が下された。結果は、海岸線を国境とし、海は備前内海(備前国)であるものの公儀のものとされ、早島・箕島・妹尾側の敗訴であった。しかし、妹尾村民の干潟への入猟の許可と、早島・箕島村民による葭草、浜松の刈取が許可され、堤防修復のための干潟の土の掘り下げが3村に認められるという、以前からの干潟での用益権の確保には成功した。
 また、財政再建のため豪農の片山新助に献金(安聡・安泰時代の頃とも言われており、定説がない)させたりもしている。それとともに、宝暦12年(1762年)貨幣経済の拡大と特産の畳表の取引のための通貨不足を補うため、豪農の片山家,佐藤家,溝手家を札元にした畳表売買通用手形(旗本札)を認めた。
 安永6年6月22日没。跡目は養子の安昶が継いだ。 

 先代・安昶の子として生まれ、天明6年(1786年)父の死により家督を相続した。
 天明7年(1788年)天明の大飢饉の影響のため、小前百姓層(役目を持たない有力百姓)に対し2月に銀1貫500目を貸出。さらに普請銀の枠で1貫目を貸出(このため、普請に対して1貫目分無償労働となる)した。
 同年8月、時を知らせる時太鼓制度を始めた。寛政7年(1795年)義倉を設け、自身も150俵を供出した。享和年間に豪農の片山新左衛門を士分(武士に準じる立場)に取立て用人格とし、財政再建に尽力させた。
 江戸では、小納戸役・小姓・御使番などを務めた。文政6年(1823年)7月に隠居し、跡目は子の安民が継いだ。文政7年(1824年)11月6日没。 

戸川安民 戸川安行

 先代・安悌の子として生まれ、文政6年(1823年)7月に父の隠居により家督を相続した。父の時代、豪農の片山新左衛門を士分に取り立てたが、豪農の佐藤平治兵衛や溝手九七郎,木村財右衛門・八郎右衛門親子を逼迫した財政を立て直すため士分へ取り立てたのは安民だといわれている。それでも財政再建は進まず、片山,佐藤,溝手家からの融資の返済ができないため文政10年(1827年)3家に合計毎年米500石を借金の利息として返済する約束までしている。天保年間にはたびたび倹約令を出すほど緊縮財政を強いられている。
 天保の大飢饉では、平年の4割ほどしか米が収穫できなかったという。そのため天保7年(1836年)冬まで米を廉価で販売する施策(安米法)をとったが、餓死者が日に数人出たという。
 天保9年(1838年)頃、片山,佐藤,溝手家が札元の旗本札が天保6年(1835年)頃までに発行停止(札潰れ)したため、通貨不足で領内の経済が停滞し、財政再建の妨げになる恐れが出たため、大坂の御用達・畳商人近江屋に頼み込み、近江屋瀬平を札元とする新たな旗本札(畳表売買通用手形)を発行させた。
 江戸では、清水口・四谷口・小石川口門番役などを務めた。弘化4年(1847年)12月に隠居し、跡目は養子の安行が継いだ。嘉永4年12月23日没。

 宮津藩主松平宗発の4男。先代・安民から養子に迎えられ、弘化4年(1847年)12月に養父の隠居により家督を相続した。
 在世中は、嘉永3年(1850年)6月の大雨と高梁川から水が溢れ出たことによる水害が原因かどうか不明であるが、近江屋瀬平を札元とする旗本札(瀬平札)がこの頃札潰れ(発行停止)となり、また通貨不足で領内の経済が停滞する恐れが出てきたため、再び近江屋に頼み込み、嘉永5年(1852年)、近江屋平三郎を新たな札元として近江屋瀬平札を引き継がせた旗本札(近平札)を発行したが、同年中に札潰れとなった。
 事態の打開のため、嘉永6年(1853年)には木村八郎右衛門に命じて倉敷の大橋家に額面銀290貫(約3800両)の瀬平札を借金の代わりに流通させるように依頼させたが、大橋家に新札を発行するように勧められたため、知行所自ら大橋家からの準備金300両を元手に札元となり、旗本札(会所札)を発行した。
 このように旗本札に固執していたのは、元禄以降の貨幣経済の発達が物価の相対的上昇を招き、江戸屋敷での出費と商人からの借金の返済額が増大したために、地元は常に通貨が慢性的に不足し、経済が停滞して収入が先細りしたからと考えられる。
 江戸では、四谷口門番役・火事場見廻役などを務めた。安政2年(1855年)7月3日没。跡目は子の安道が継いだ。 

戸川安道 戸川安宅

 先代・安行の子として生まれ、安政2年(1855年)に父の死により家督を相続した。相続当初は、天災と疫病に苦しめられた。まず相続直後に、江戸屋敷が安政の大地震で建物の全てが大破した。安政3年(1856年)6月、旱魃のため知行地内の竜王宮・鍋森宮に対し雨乞い祈祷をするよう御触書を出している。安政4年(1857年)も知行地内で2月に風邪(流感)が蔓延、さらに6月から9月は旱魃と暴風雨に遭うなど天災に見舞われたため、安政6年(1858年)、家臣・片岡藤左衛門に伊勢神宮に代参するよう命じている。しかし、この年から翌安政7年(1859年)までコレラの大流行、万延元年(1860年)の米の不作などがおこっている。
 安政4年(1857年)11月、先代・安行が貸付による利益を目論み始めさせた会所札(旗本札)が、1394両の債務超過となり、札潰れ(発行停止)となったため、札の引き揚げのため知行地内の有力農民・商人65名から融資や上納金を強要して引当金にしたが、知行地内の通貨が不足し流通の妨げとなり、経済の停滞を招いた。
 安政5年(1858年)2月、士分・溝手九七郎を世話役に命じて郷校・時習館を創設し、家臣のみならず庶民にも開放した。
 文久3年(1863年)8月29日から9月5日まで江戸・昌平橋警護役、同年12月市川番所の警護役を務めた。慶応元年(1865年)2月の長州征伐は病気で出陣できず、弟の安宅(隼人)を代わりに出陣させる。
 慶応4年(1868年)正月、国元の重臣・数田佐平太たち3人に岡山にいる岡山藩家老・伊木忠澄らに領地を預ける証書と知行地内の石高と年貢を書き上げた文書(高物成書上)を提出させた。同年3月12日、隼人に命じて京都の太政官へ御用を勤める意志を記した懇願書と岡山藩主の添書とともに提出させた。同年5月、本領安堵・下大夫に任命される。同年6月一族らと共に早島へ移住した。
 同年8月隠居し、跡目は弟で養子の隼人が継いだ。明治5年(1872年)1月29日没。

 江戸時代末期の旗本で、明治時代の文学者,日本基督教会の牧師である。通称ははじめ隼人、のち達若。雅号は残花。別号として百合園主人。
 安政2年(1855年)、江戸の旗本・早島戸川家12代・戸川安行の子として牛込原町に生まれた。慶応元年(1865年)2月の長州征伐は、病気がちであった兄・安道の名代で出陣した。
 慶応4年(1868年)3月12日、兄の名代としてアメリカの蒸気船で品川港を発ち、神戸を経て、3月18日に太政官に懇願書と岡山藩主の添書を提出した。同年5月、彰義隊に参加。同年6月、一族と共に領地の備中国早島に移り住んだ。8月、兄の養子となり家督を相続した。ちなみに、兄と同様、下大夫を授かったと思われる。
 早島戸川家は表高3000石に対し、実高は5233石であったが、借金は嘉永年間の時点で約3万両,利子数千両、加えて幕末維新の動乱で軍費がかさんだため財政は事実上破綻していた。明治2年(1869年)6月の版籍奉還により借金地獄からは解放された。所領を失ったため、明治3年(1869年)2月に江戸へ戻ったが、すでに江戸屋敷は接収されて大隈重信の屋敷となっていたため、以後は新政府から与えられた代替屋敷に居住した。その後、明治3年(1870年)に大学南校に入り、続いて慶應義塾に学ぶ。他、カロザースの築地大学校などで勉学に励んだ。
 明治7年(1874年)12月6日に、アメリカ人宣教師ディビッド・タムソンにより洗礼を受けてキリスト教徒となった。後にミッションスクールの築地大学校で学ぶ。明治16年(1883年)以降、巡回伝道者として関西方面で伝道に従事した後、帰京して日本基督教会麹町教会の牧師となる。明治23年(1890年)、『伝道師』『童蒙賛美歌』(共編)・『新撰讃美歌のてびき』などキリスト教関係の書籍・冊子を著した。また明治23年(1890年)刊行の『猫の話』は、近代日本の創作童話最初期の一冊で、楽しい子供向けの本である。
 明治26年(1893年)、星野天知・主宰の『文学界』創刊時、客員として詩を発表。中でも七五調と五七調を混用した哀れにして上品で美しい詩「桂川(情死を吊う歌)」は北村透谷から激賞されたという。この年は毎日新聞社(横浜毎日新聞)に入社して小説も書いた。明治30年(1897年)から3年間、勝海舟ら旧幕臣の手を借りて雑誌『旧幕府』を刊行し、古老たちの旧幕府時代の回想や論考、文芸作品などを掲載している。
 明治34年(1901年)、日本女子大学校の創立に成瀬仁蔵と共に参画した(国文学の教授となる)。大正12年(1923年)、関東大震災で大井町の家が倒壊したため、大阪府東成郡天王寺村にて長男と同居する。大正13年(1924年)12月8日没。
 若き日の田山花袋や島崎藤村の世話をしたり、長女の達子が親しくしていた関係で樋口一葉に縁談の世話をしたことがある。

戸川安清 戸川安章

 戸川安論の子として生まれた。文化2年(1805年)従五位下・大隅守(のち播磨守)。天保7年(1836年)より長崎奉行。天保13年(1842年)2月より勘定奉行。弘化2年(1845年)より西の丸留守居役。万延元年(1860年)より留守居役など要職を歴任した。
 文久元年(1861年)、公武合体のため江戸に居る将軍・徳川家茂のもとへ降嫁する和宮の警護役を務める。慶応2年(1866年)12月に剃髪隠居し、子の中務少輔が早世しているため跡目は養子(孫)の八百次郎に継がせた。慶応4年(1868年)3月4日没。墓は品川区上大崎の最上寺にある。
 安清は篆書・隷書を得意とする書の達人として知られており、徳川家茂の師範を務めるほどであった。有名な書に、不洗観音寺(倉敷市中帯江)の本堂「縁起額」(天保10年)と昌平黌の「論語」の一節を書いた屏風(安政3年)がある。寿蔵碑(生前に作る墓碑)の文は成島司直が撰し、書は自身が行っている。 

 妻は堀長尚の長女、後妻は堀長尚の次女。文化4年(1807年)、父の死により家督相続する。
 備中国は綿の産地の一つであり、和漢三才図会では摂津国と備後国の次に質が良いという。天保元年(1830年)頃からは足袋や小倉織が佐藤栄八,姫井甚七治らにより発展しつつあったが、知行所は財政難のため産業振興策をとる余裕がなかった。
 天保4年(1833年)から天保の大飢饉に見舞われると、財政難に一層拍車をかけた。そのため、天保9年(1838年)から5年間の倹約令を出した。
 江戸では、使番・先鉄砲頭・小石川口門番役を歴任した。天保10年(1839年)6月2日没。 

戸川安栄 戸川安愛

 先代・安章の長男に生まれ、天保10年(1839年)、父の死により家督相続する。天保4年(1833年)からの天保の大飢饉により、父の時代に天保9年(1838年)から5年間の倹約令が出されていたが、初年度以外は全く効果が現われず、財政難は一層深刻になった。そのため、弘化3年(1846年)正月から江戸屋敷に引き籠っていたが、同年2月に甲府勤番支配に命じられ、江戸・甲府間での往復費用並びに甲府での滞在費用を借金で賄い、ますます苦しくなった。
 嘉永元年(1848年)には、借金総額が42095両に至り、倉敷の大橋家・植田家に財政仕法(財政再建)請負を依頼した。両家は、年貢米を担保にして既に貸付している借金・米の回収と仕法により年利12%の短期貸付金確保と役目の1年契約更新で引き受けた。同年6月両家の提出した領主生活費・家臣の俸禄削減、借金元への長期年賦の交渉・実現を柱とする財政仕法書に沿って財政再建を進めることになった。しかしながら借金の利子の支払いができる程度の効果しか出なかったので、元金は減らなかった。加えて安栄が取り決めを守らず勝手に新たな借金をしたり、生活費の増額を要求したりしたため、安政2年(1855年)には両家に役目を降りると通告される騒ぎを起こされ、両家に詫びを入れる事態を起こしている。
 江戸では、その他四谷口門番役・先鉄砲頭を歴任。諸大夫に列した。文久2年(1862年)11月7日没。享年58。

 

 先代・安栄の四男に生まれる。幼少時より聡明であったため、安政5年(1858年)、部屋住のまま小納戸役となり布衣の着用を許された。さらに同年、幕府学問所教授方手伝出役となり、漢文の講義を上覧した。
 文久2年(1862年)、父の死により家督相続し、目付になる。同年、幕府より兵賦令(徴兵制)が出された。これは、旗本に知行高に応じて知行所の領民を徴兵して給金は知行主が出すというものであり、帯江知行所では年間55両の負担となった。文久3年(1863年)、外国御用立会をする。
 元治元年(1864年)、京都に上洛し禁門の変では禁裏御守衛総督・一橋慶喜の命により長州藩家老に軍の退兵命令を伝達する役目を勤めた。また、諸大名の陣地見廻役をした。同年の第一次長州征伐にも出陣し、禁門の変の責任者である三家老(国司親相,益田親施,福原元僴)の首実検にも立ち会うなどした。
 慶応元年(1865年)、大坂にて目付に再任、翌慶応2年(1866年)には大目付になる。同年幕府より第二次長州征伐(のちに戊辰戦争の軍費にもなった)の軍費を賄うための軍役金上納制が始まった。この頃の帯江戸川家は表高は3000石であるが実高は5743石あり、単年度金収支は慶応元年で1221両の赤字であった。慶応2年になると2287両の黒字、さらに慶応3年(1866年)は146両の黒字となっている。しかし、軍役金の負担は慶応3年の時点で年1905両(軍役金1874両、練兵・弾薬費31両)と江戸屋敷・陣屋の生活費の1306両を遥かに超える高負担、加えて目付・大目付と出世したため交際費も多額の負担だったにもかかわらず慶応2年・3年が黒字だったのは、米価が平年の8倍に高騰したからであり、戦時が財政を好転させたのは皮肉である。
 慶応2年(1866年)、二日市村(倉敷市二日市)に学問所を設けて、医師・植田亮哉を教官に召し抱え、家臣や近郷の子弟を教育させた。慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いには慶喜を擁して大坂にいたが、旧幕府軍が敗れたため朝敵となり、帯江知行所は岡山藩に陣屋・土地のすべてを没収された。同年2月、「挙正退奸の上書」を慶喜に出すほどの主戦論者の一人であったため、明治政府から官位差止めのうえ、領地家屋敷を正式に没収・追放処分となる。
 明治元年11月(1868年)、江戸から一族郎党ともに駿府に移住して静岡藩中老、明治2年(1869年)には静岡藩権参事を歴任。明治4年(1871年)、廃藩置県により宮内省に奉職。明治5年(1872年)、家督を弟・栄秀に譲り跡を継がせた。
 明治15年(1882年)に宮内省を辞職して帰郷し、知行所だった帯江(倉敷市帯江地区)に移住し、窪屋郡長を勤める。晩年は帯江小学校首座(校長・初代)に就任した。明治18年(1885年)11月9日没。