<神皇系氏族>天孫系

SW18:菅原知頼  土師身臣 ― 菅原古人 ― 菅原道真 ― 菅原知頼 ― 有元満佐 SW19:有元満佐


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菅 佐弘 菅納家晴
 元弘3年(1333年)、 有元佐弘に率いられた菅家一族三百余騎は伯耆国船上山の後醍醐天皇のもとに馳せ参じ、都に攻め上ると幕府軍と戦った。『太平記』には京都猪熊の戦いで有元佐弘,佐光,佐吉ら兄弟が戦死、そのとき、廣戸豊前守佐友の嫡男・頼氏も討死したとある。

 菅納氏は美作久米南条郡下神目村の国人領主として力を持った一族で、室町時代には赤松氏被官として沼元氏と共に弓削庄を支配していたが、赤松晴政が尼子晴久の侵攻によって美作における影響力を失うと尼子に従い、次いで衰退した尼子氏に成り代わって美作に侵攻した浦上氏に従うようになったと考えられている。
 家晴は浦上宗景に従い、沼元氏と共に弓削庄の国人達(弓削衆)を統括する立場を務め、戦時には宗景の呼びかけに応じて弓削衆をまとめて浦上家に協力したりと、浦上家の動員の一翼を担う存在でもあった。
 しかし天正2年(1574年)、宇喜多直家が浦上宗景に対して天神山城の戦いを起こした際には、沼元氏と呼応し直家に味方する。これにより浦上家は戦力を削がれると同時に、宗景と同盟した三浦貞広との連携を断たれ戦略的にも不利になる結果となった。こうした動きに宗景は三浦との連携を回復するべく菅納・沼元両氏を討つことを決め、天正3年(1575年)7月、延原土佐守,岡本氏秀を大将とし、美作国人の中嶋吉右衛門尉らを加えた軍団を弓削庄に攻め込ませた。これに対し菅納氏は鷹栖城を捨て、蓮花寺城に移動し逆茂木を張り巡らせて浦上軍を待ち構えた。蓮花寺城は浦上軍の猛攻を受け、城将の一人が討ち死にするも家晴の嫡男・三郎右衛門らの奮戦もあって浦上軍を撃退。延原土佐守,中嶋吉右衛門尉を負傷させるなど浦上軍に損害を与えた。三郎右衛門の働きに直家は感心し、感状と太刀・馬を与えて賞賛している。以後も三浦貞広などの攻撃を受けるが、領地を守抜き宇喜多直家の浦上宗景追放に弓削衆は活躍をした。
 以後は宇喜多家臣となり、変わらず弓削庄を治めた。宗景追放後、菅納氏へ宛てた直家からの書状は三郎右衛門に宛てたものが殆どであり、隠居していた可能性が高い。文禄2年3月9日(1593年4月10日)、死去。子孫は関ヶ原の戦いで宇喜多秀家が改易されると失領したが同地に残り、津山藩立藩後は同地の庄屋の家系として明治時代まで残った。
 内閣総理大臣となった菅直人はこの一族の出で、久米郡議会議員となった祖父の菅實までは神目を拠点とした。21世紀に入っても、先祖より引き継いだ広大な土地が菅直人の所有地となっている。 

菅 正利 岡本氏秀

 美作菅氏(有元氏)の流れで父の菅正元の代に播磨国の越部邑に移り住んだ。天正9年(1581年)、黒田孝高に小姓として出仕。孝高の命により、吉田長利(六郎太夫)の武運にあやかるように「六之助」を名乗った。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで17歳で初陣し、首を2つ取って賞賛された。
 天正12年(1584年)、第二次紀州征伐に黒田長政と共に従軍し、岸和田城攻めで一番槍の功。天正15年(1587年)の九州征伐に従軍し、日向耳川で薩軍と交戦。黒田家が豊前国を与えられた際には、転封に反対した城井鎮房とその家臣を排除した戦いでの功績で、長政より貞宗の脇差を褒美として与えられ、豊前で200石を拝領した。
 文禄・慶長の役でも勇猛果敢、獅子奮迅など数々の戦功を挙げ、慶長3年(1598年)に300石を加増されて500石となった。朝鮮に虎を斬った逸話を伝われる。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、長政に従って島左近を討ち取るなど関ヶ原で戦功を挙げている。他方、国許にあった正元は、如水に従って豊後攻略で活躍して1,300石を拝領。この領地は正元の死後、弟・正周に受け継がれた。
 慶長6年(1601年)、3,000石を拝領して大組頭に任命され、怡土郡・志摩郡の代官も務めた。慶長10年(1605年)、徳川秀忠が征夷大将軍になると、「忠」の字を避けるため「忠利」から「正利」に改名している。
 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では兵庫に出兵し、井上之房,小河之直とともに徳川家康・秀忠に拝謁。大坂城外堀の埋め立て後、黒田忠之と共に福岡へ帰国。元和4年(1618年)、長政の命により早良川河口の干拓工事や糟屋郡新原村,志摩郡新田村の新田開発を行った。
 元和7年(1621年)、嫡子・重利に家督を譲った後、隠居料1,200石を与えられ、福岡城南二の丸城番に任ぜられる。元和9年(1623年)に長政が没すると出家して松隠宗泉と号した。寛永2年(1625年)6月29日死去。享年59。
 身の丈6尺2寸(約190cm)または2m超の大男で、力も群を抜き、鼎を曲げるほどの剛力だった。天性勇猛で物に動じず、仁愛の心深く忠義の志浅からず、智恵才力も人に超えていたという。 新免無二に新当流、疋田景兼に新陰流を学び、二つの流儀に達して奥義を極め知っていて、剣豪としても知られ、人を斬るときに殺気がまったく感じられなかったという。また、茶人の一面も持ち茶杓を自作している。猛将の証として赤備えだった。兜は法螺貝形で馬印は雁の丸。佩刀太刀は銘『斃秦』または『南山』。

 仕え始めた時期は不明であるが、永禄年間頃より浦上宗景の家臣として働きが見える。美作の浦上家臣の中でかなり高い権限を持っていた。
 永禄11年(1568年)6月1日には備前の片上と浦伊部の間で起こった境界争いの仲介を大田原長時,服部久家,日笠頼房,明石行雄,延原景能と氏秀の6人が行っている。名を連ねた浦上家中6人の重臣の中で美作に本領を置いていたのは氏秀のみであり、そうした立場から浦上兄弟分裂以降、宗景の地盤が手薄であった美作において国衆の調略や国衆と浦上宗景との間を取り次ぐ役を担うことで重臣としての信任を得るに至ったようである。
 永禄12年(1569年)10月には毛利氏に奪われた高田城の奪還を狙う三浦貞広を明石,長船,岡らと共に支援して高田城代・香川広景を攻撃し、翌元亀元年(1570年)春頃には三浦氏は高田城を回復。これ以後、勢力として復活を果たした三浦氏の家政を執り仕切る牧尚春と浦上氏の美作取り次ぎである氏秀との間で盛んに書状がやり取りされるようになる。大友宗麟が仕掛け浦上氏も加わっていた「毛利包囲網」とも美作の責任者として宗景とは別に連絡を取っていたようで、牧尚春との書状の中で山中幸盛や村上武吉の名前も挙がっており結びつきが見て取れる。
 天正2年(1574年)4月より始まった宇喜多直家と浦上宗景との間の天神山城の戦いでは浦上方に付いたが、宇喜多軍の岩屋城占拠や沼元・菅納氏ら弓削衆を寝返らせた美作南東部国人の切り崩し工作によって氏秀は美作に取り残され、浦上軍主力との連携が早い段階で断たれ、同年中は目立った行動も起こせずに年を越した。翌天正3年(1575年)1月から宇喜多氏と三浦氏の交戦が始まると、宗景と共に三浦軍を率いる牧清冬(菅兵衛)に書状を送り、織田信長の援軍が近いことや阿波の三好氏、因幡で活動中の山中幸盛にも援軍を依頼している事を伝えて書状で度々激励している[8]。同年7月には備前と美作の連絡路が分断された状況を解消するために浦上軍は弓削荘の沼本久家,沼本豊盛,菅納家晴らの守る蓮花寺城・小松城の攻略を目指し、美作側から氏秀と中島隆重が侵攻し、同時に備前方の延原家次も弓削荘を攻めるという二面作戦を展開したが、この戦いで浦上軍はまさかの惨敗を喫し敗走した。この敗戦後、浦上軍は天神山城に篭ったが9月には明石行雄ら重臣が宇喜多に寝返ったことで陥落。浦上宗景は天神山城を捨てて敗走し、大名勢力としての浦上氏は滅んだ。
 浦上氏滅亡後、岡本一族は宇喜多直家に仕えたが、岡本氏がかつてのように美作で大きな権力を持つことはなく、氏秀の事績もこれ以後定かではない。岡本一族の棟梁として宇喜多家軍で活躍した岡本秀広は息子であると言われるが現在のところ確定とまでは言い切れない。

岡本秀広 植月重長

 岡本氏秀の子と目されるが、現在のところ断定はできない。文書での初出は元亀2年(1571年)9月4日の佐井田城の戦いで、この時に浦上軍の援軍として秀広が、宇喜多軍の援軍として伊賀久隆らが佐井田城主植木秀資と協力して戦い、三村元親,荘元祐らを破った。この時、秀広は敵の首を挙げて宗景より「比類なき働き」と賞賛され、宗景と赤松満政の2人から感状を賜っている。
 天正2年(1574年)4月から天正3年(1575年)9月までの天神山城の戦いでは浦上方であり、天正3年(1575年)の2月から3月にかけて岡本氏秀と共に秀広も三浦貞広家臣の牧清冬に山中幸盛の美作出兵が近いことを知らせ、激励していた。天神山城の戦いを宇喜多直家が制し、浦上氏が滅亡した後はこれに仕えた。
 天正6年(1578年)の上月城の戦いに参加し、6月21日の高倉山麓の戦いでは織田氏の家臣・羽柴秀吉の軍勢と戦い、多くの敵を討ち取った秀広の軍勢の働きは直家より賞賛された。宇喜多氏が毛利氏と手切れし織田氏に臣従した後は、天正8年(1580年)末頃に美作高田城の付近で牧左馬助と共に毛利軍と交戦し、鷲見源之丞を左馬助が討ち取った。
 直家死後も跡を継いだ宇喜多秀家に仕え、文禄元年(1592年)からの豊臣氏による文禄の役では、宇喜多軍の一員として朝鮮へ渡航。文禄2年(1593年)6月の第二次晋州城攻防戦では晋州牧使徐礼元の首を取るという大功を挙げ、豊臣秀吉より先の晋州城攻防戦で日本軍を苦しめたとされる「もくそ官」の首を取ったことを絶賛され、その首は塩漬けにされて京まで送られ、そこで晒し首となった。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで宇喜多秀家が改易されると浪人となった。戦後、福岡藩黒田氏の家臣に「岡本権之丞」が新参として1,500石の知行を得ているが、おそらく同一人物であると思われる。秀広の子孫は代々「岡本権之丞」を名乗って福岡藩の武芸指南役となり、明治時代には安部磯雄(社会民衆党党首,日本社会党顧問)を輩出した。

 重長以降赤松氏に属し、のち左馬助佐可のときに尼子経久に仕え、孫の重秋は宇喜多直家に仕えた。重教のとき関ヶ原の合戦が起こり、戦後、宇喜多氏は没落、重教は浪人となり、その孫の代に森氏の家臣となったという。