美作菅氏(有元氏)の流れで父の菅正元の代に播磨国の越部邑に移り住んだ。天正9年(1581年)、黒田孝高に小姓として出仕。孝高の命により、吉田長利(六郎太夫)の武運にあやかるように「六之助」を名乗った。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで17歳で初陣し、首を2つ取って賞賛された。 天正12年(1584年)、第二次紀州征伐に黒田長政と共に従軍し、岸和田城攻めで一番槍の功。天正15年(1587年)の九州征伐に従軍し、日向耳川で薩軍と交戦。黒田家が豊前国を与えられた際には、転封に反対した城井鎮房とその家臣を排除した戦いでの功績で、長政より貞宗の脇差を褒美として与えられ、豊前で200石を拝領した。 文禄・慶長の役でも勇猛果敢、獅子奮迅など数々の戦功を挙げ、慶長3年(1598年)に300石を加増されて500石となった。朝鮮に虎を斬った逸話を伝われる。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、長政に従って島左近を討ち取るなど関ヶ原で戦功を挙げている。他方、国許にあった正元は、如水に従って豊後攻略で活躍して1,300石を拝領。この領地は正元の死後、弟・正周に受け継がれた。 慶長6年(1601年)、3,000石を拝領して大組頭に任命され、怡土郡・志摩郡の代官も務めた。慶長10年(1605年)、徳川秀忠が征夷大将軍になると、「忠」の字を避けるため「忠利」から「正利」に改名している。 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では兵庫に出兵し、井上之房,小河之直とともに徳川家康・秀忠に拝謁。大坂城外堀の埋め立て後、黒田忠之と共に福岡へ帰国。元和4年(1618年)、長政の命により早良川河口の干拓工事や糟屋郡新原村,志摩郡新田村の新田開発を行った。 元和7年(1621年)、嫡子・重利に家督を譲った後、隠居料1,200石を与えられ、福岡城南二の丸城番に任ぜられる。元和9年(1623年)に長政が没すると出家して松隠宗泉と号した。寛永2年(1625年)6月29日死去。享年59。 身の丈6尺2寸(約190cm)または2m超の大男で、力も群を抜き、鼎を曲げるほどの剛力だった。天性勇猛で物に動じず、仁愛の心深く忠義の志浅からず、智恵才力も人に超えていたという。 新免無二に新当流、疋田景兼に新陰流を学び、二つの流儀に達して奥義を極め知っていて、剣豪としても知られ、人を斬るときに殺気がまったく感じられなかったという。また、茶人の一面も持ち茶杓を自作している。猛将の証として赤備えだった。兜は法螺貝形で馬印は雁の丸。佩刀太刀は銘『斃秦』または『南山』。
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仕え始めた時期は不明であるが、永禄年間頃より浦上宗景の家臣として働きが見える。美作の浦上家臣の中でかなり高い権限を持っていた。 永禄11年(1568年)6月1日には備前の片上と浦伊部の間で起こった境界争いの仲介を大田原長時,服部久家,日笠頼房,明石行雄,延原景能と氏秀の6人が行っている。名を連ねた浦上家中6人の重臣の中で美作に本領を置いていたのは氏秀のみであり、そうした立場から浦上兄弟分裂以降、宗景の地盤が手薄であった美作において国衆の調略や国衆と浦上宗景との間を取り次ぐ役を担うことで重臣としての信任を得るに至ったようである。 永禄12年(1569年)10月には毛利氏に奪われた高田城の奪還を狙う三浦貞広を明石,長船,岡らと共に支援して高田城代・香川広景を攻撃し、翌元亀元年(1570年)春頃には三浦氏は高田城を回復。これ以後、勢力として復活を果たした三浦氏の家政を執り仕切る牧尚春と浦上氏の美作取り次ぎである氏秀との間で盛んに書状がやり取りされるようになる。大友宗麟が仕掛け浦上氏も加わっていた「毛利包囲網」とも美作の責任者として宗景とは別に連絡を取っていたようで、牧尚春との書状の中で山中幸盛や村上武吉の名前も挙がっており結びつきが見て取れる。 天正2年(1574年)4月より始まった宇喜多直家と浦上宗景との間の天神山城の戦いでは浦上方に付いたが、宇喜多軍の岩屋城占拠や沼元・菅納氏ら弓削衆を寝返らせた美作南東部国人の切り崩し工作によって氏秀は美作に取り残され、浦上軍主力との連携が早い段階で断たれ、同年中は目立った行動も起こせずに年を越した。翌天正3年(1575年)1月から宇喜多氏と三浦氏の交戦が始まると、宗景と共に三浦軍を率いる牧清冬(菅兵衛)に書状を送り、織田信長の援軍が近いことや阿波の三好氏、因幡で活動中の山中幸盛にも援軍を依頼している事を伝えて書状で度々激励している[8]。同年7月には備前と美作の連絡路が分断された状況を解消するために浦上軍は弓削荘の沼本久家,沼本豊盛,菅納家晴らの守る蓮花寺城・小松城の攻略を目指し、美作側から氏秀と中島隆重が侵攻し、同時に備前方の延原家次も弓削荘を攻めるという二面作戦を展開したが、この戦いで浦上軍はまさかの惨敗を喫し敗走した。この敗戦後、浦上軍は天神山城に篭ったが9月には明石行雄ら重臣が宇喜多に寝返ったことで陥落。浦上宗景は天神山城を捨てて敗走し、大名勢力としての浦上氏は滅んだ。 浦上氏滅亡後、岡本一族は宇喜多直家に仕えたが、岡本氏がかつてのように美作で大きな権力を持つことはなく、氏秀の事績もこれ以後定かではない。岡本一族の棟梁として宇喜多家軍で活躍した岡本秀広は息子であると言われるが現在のところ確定とまでは言い切れない。
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