大内弘家の子として誕生。鷲頭氏の一族・禅恵尼の養子となる。鷲頭氏は大内盛房の3男・盛保が在地名である都濃郡鷲頭庄を取って鷲頭と称していたが、盛保の嫡男・親盛の死後は後継者が無く、親盛の娘・禅恵尼が、養子として宗家から長弘を迎え後継者とした。 元弘3年/正慶2年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡し、建武の新政になると、幕府に味方した宗家の甥・弘幸にかわって後醍醐天皇から周防守護職に任ぜられた。建武の新政が崩壊すると、大内一族は足利尊氏に味方した。建武3年/延元元年(1336年)2月、北畠顕家に京都を奪われた尊氏に味方するため、長弘は東へ向けて出発する。2月7日には摂津国兵庫まで進み、大友貞宗,厚東武実と共に官軍の土居氏,得能氏らと戦う。尊氏が再度敗北し九州に向かう際にも、引き続き周防守護職に任ぜられた。周防守護職に任ぜられた長弘は、大内豊前権守や大内豊前権守入道と称し、大内氏の惣領として君臨した。 死後、周防守護職は次男・弘直が継ぐが、観応の擾乱の際に南朝方へ転じた大内弘世によって、鷲頭氏は大内宗家に従属を余儀無くされる。
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鷲頭氏の6代目にあたる。永享4年(1432年)、大内持世によって長門・守護代に補され、長門深川城を居城とした。長門守護代はそれまで大内氏の重臣・内藤氏らが任じられており、信頼の厚さが窺える。 嘉吉元年(1441年)持世が死亡すると、教弘が跡を継いだが、弘忠と教弘は不仲だったと考えられ、文安3年(1446年)4月15日に守護代の任を解かれた。一説には、大友氏や少弐氏との戦いで活躍し、筑前国粥田荘(仁和寺領)の代官を務めるなど九州での地盤を広げ、文武両面で有力な武将として勢力を拡大したことが警戒されたとも言われている。また、粥田荘は本家は仁和寺、領家は高野山金剛三昧院が占める重層支配の構造となっていたが、弘忠が仁和寺から直接代官に任じられる一方で、領家の金剛三昧院が任じた代官を少弐氏と内通した疑いで追放して同院の権利を没収したことが教弘の不快感を買ったともいわれている。その後、弘忠は本拠深川城の周辺に支城を築き、教弘の攻撃に備えた。 弘忠は当初、教弘が響灘の深川湾へ水軍をもって侵攻すると考え、亀山城を築いて備えた。しかし、いざ攻撃が始まると、教弘は現在の美祢市方面から侵攻し、鷲頭氏家臣の刺賀氏が守る堅田城や沢差城などを落城させ、搦手から深川城に迫った。文安5年(1448年)2月17日、遂に深川城は陥落し、弘忠はもとより、その子・弘貞を含む一族郎党全てが殺されたという。 なお、大内氏の菩提寺である大寧寺は彼が開基したもので、弘忠の墓が現在でも残る。
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