百済系渡来氏族

OU03:大内満盛  多々良正恒 ― 大内満盛 ― 杉 貞弘 OU04:杉 貞弘


 

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杉 貞弘 杉 興運
 一般に初代とされる杉貞弘は観応の擾乱当時に足利直冬の武将として記録される人物で、観応3年/正平7年(1352年)には同じく直冬配下の内藤藤時とともに対立勢力の大内弘世と度々交戦している。

 応永の乱で活躍した杉豊後入道重運の子孫。周防国の大名・大内義隆(義興の子)に仕えて、筑前の守護代を務めた。居城は若杉山城。
 享禄3年(1530年)には義隆の命を受けて大内軍を率いて少弐資元を攻めるが(田手畷の戦い)、資元の家臣であった龍造寺家兼の機略の前に一敗地にまみれた。その後も大友氏などと交戦し、北九州の大内軍を任されていたという。
 天文19年(1550年)7月17日、従五位下に叙位、22日に太宰権少弐となる。
 天文20年(1551年)、陶隆房(のちの晴賢)が謀反を起こした際には大内義隆に従ったが、義隆が大寧寺で自害した後、自身も九州糟屋浜において義隆に殉じて自害したという記録と、陶軍と戦い討ち死にした記録、義隆と同行し共に切腹した記録があり、定かではない。

杉 重矩 杉 重輔

 周防・長門国を本拠とする戦国大名・大内氏の家臣。享禄3年10月14日(1530年11月3日)付の防府天満宮棟札に「杉七郎重信」の名が見えるのが史料上の初見である。 天文7年(1538年)12月に朝廷より従五位下の叙任を受ける。当初は「重信」と名乗ったが、天文8年(1539年)に「重矩」、天文22年(1553年)に「重将」と改名している。大内義隆に仕え、豊前の守護代として大友氏や少弐氏と戦った。
 陶晴賢とは犬猿の仲で、普段から対立していたが、天文20年(1551年)の晴賢の謀反(大寧寺の変)では、晴賢に味方して主君・義隆を討っている。この理由には諸説あるが、義隆が文治派の相良武任を寵愛するのを見て、義隆にも不満を抱いていたためという説が有力である。
 義隆への謀反の直後、重矩は再び晴賢と対立した。これは重矩が変後になって主君や公卿らを殺害した自らの軽挙を後悔して周防佐波郡大崎に蟄居していたのだが、変前に晴賢を討つように義隆に進言していたことが相良武任申状を手に入れた晴賢に知られてしまったためである。重矩は晴賢に敗れて長門国厚狭郡長光寺に逃亡するも追い詰められて自害した。その首級は義隆の霊に捧げるとして山口で晒し首にされた。この重矩殺害は晴賢が謀反の責任を重矩に転化して自己を合理化して政権を確立するための手段だったとされる。この遺恨は跡を継いだ息子の重輔に引き継がれた。
 重矩は不仲ながら晴賢の謀反に同調して大内義隆を討ったため、義隆に晴賢のことを讒言して、晴賢に寝返った悪人とまで言われている史料もある。

 戦国大名大内氏の重臣・杉重矩の子として誕生。父・重矩は天文20年(1551年)の陶晴賢による主君・大内義隆殺害と、大友晴英(大内義長)の大内氏当主擁立(大寧寺の変)に加担したが、天文22年(1553年)に晴賢によって謀殺される。このことから重輔は晴賢を深く恨み、報復の機会を狙っていた。
 天文24年(1555年)の厳島の戦いにおいて陶晴賢が毛利元就に討たれると、重輔は手勢を率いて晴賢の居城である富田若山城(現・周南市)を急襲し、留守を守る晴賢の嫡男・陶長房や問田隆盛(石見守護代)らを攻め滅ぼした。これを聞いた内藤隆世ら陶派の重臣達が重輔を討伐しようとし、主君・義長が仲裁を試みたものの両者は全面対決に突入し、山口の町を炎上させた。最終的に重輔は 弘治3年(1557年)に防府にて内藤隆世の軍に討たれた。これを聞いた毛利元就は大内氏の本国である周防・長門両国への本格的な侵攻を開始し、大内氏を滅ぼした(防長経略)。

杉 重良 杉 元良

 天文23年(1554年)に大内氏家臣・杉重輔の子として生まれたが、弘治3年(1557年)に父・重輔が内藤隆世の軍に討たれたため、わずか4歳で家督を継ぎ、毛利元就に仕える。
 防長経略により大内氏領を併合した後に北九州へ進出した元就は、永禄4年(1561年)11月5日、かつて杉氏が在城していた豊前松山城の城主に重良を起用。天野隆重が補佐役となり、内藤就藤や毛利元種・元員父子らも在城した。翌年の永禄5年(1562年)には豊前松山城は大友氏より攻撃を受けている。
 また、永禄6年(1563年)に足利義輝の斡旋により毛利氏と大友氏の間に和睦が成立し、豊前松山城は大友氏に引き渡されたが、永禄末年から天正年間にかけて毛利氏の攻撃を受け再び毛利氏の城となり、再び杉重良が入城した。
 永禄12年(1569年)10月の大内輝弘の乱の際には毛利家につくか大友家につくかの葛藤の末に毛利家に従うことにし、大友家が援軍を出していた大内輝弘を攻撃して攻め滅ぼす。この戦功で徳地2000貫の地を与えられるが、「徳地は公領」という重臣たちの反対によりこれを返還し、代わりの土地300貫を与える約束をとりつけた。しかしその翌年、毛利輝元にその約束の実行を訴えたが、返答は空分となる。
 天正7年(1579年)1月以前、秋月種実が毛利氏に味方した際に豊前国の切り取りを認められ、田川郡と京都郡に侵攻すると、重良は豊前松山城に在城時に与えられた京都郡と仲津郡の二郡を要求して秋月氏に抗議している。
 天正7年(1579年)1月18日、秋月種実との軋轢の影響により大友家臣・田原親宏の調略に応じた重良は豊前松山城を退去して仲津郡簑島へ移り、蓑島城において毛利氏に反旗を翻して大友氏に寝返った。毛利氏を離反した重良は秋月種実,高橋鑑種,長野助守の連合軍と戦い、2月28日に仲津郡大橋における合戦で勝利。その後、高橋鑑種と長野助守に簑島城を連日攻撃され敵数百人を討ち果たしたものの、同年3月4日に高橋鑑種に討ち取られた。享年26。なお、『筑紫軍記』によれば、同年3月3日に築城郡椎田で高橋鑑種に討ち取られたとされる。
 重良の謀反により、輝元は杉氏は断絶させようとしたが、嫡男の元良(当時は松千代丸)は重良に同心していない旨を重良の正室が言上し、正室の兄である福原貞俊も輝元に対して丁寧な謝罪をしたため、輝元は幼少の元良の家督相続を認めて所領を安堵した。
 異説によれば、戦の後に落ち延びて小倉・若松・芦屋・博多などを経て対馬に渡り、田中源五郎と変名して宗氏に仕えた後、平戸の松浦氏,五島の大村氏に仕え、長崎近辺の野母村を遍歴し、朝鮮出兵にも従軍し、関ヶ原の戦いの後には鍋島氏の客分となってそこで生涯を閉じたという。尚、天正7年(1579年)3月4日に没したのは、主家に逆らって国追われた祖先を恥じて憚った重良の子孫の創作であるともされる。

 毛利氏家臣で豊前松山城主となった杉重良の嫡男として生まれる。
 天正7年(1579年)1月18日、父・重良が毛利氏に対し謀反を起こして逃亡したため、毛利輝元は杉氏は断絶させようとした。しかし、元良(当時は松千代丸)は重良に同心していない旨を元良の母が言上し、元良の母の兄である福原貞俊も輝元に対して丁寧な謝罪をしたため、輝元は幼少の元良の家督相続を認めて所領を安堵し、重良の謀反の非を悔い、毛利氏に馳走をすることが肝要であると述べている。
 天正16年(1588年)6月28日、毛利輝元より長門国豊田郡内に509石3斗余、同国大津郡内605石7斗余の地を安堵される。天正17年(1589年)4月27日に輝元の加冠状を受けて元服し、「元」の偏諱を与えられて「杉少輔九郎元良」と名乗った。慶長2年(1597年)3月8日には輝元から「七右衛門尉」の官途名を与えられている。
 文禄5年(1596年)1月23日時点での元良の知行は、1133石3斗2升8合と記されているが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に毛利氏が防長2国に領国を減らされると、元良には慶長6年(1601年)3月12日に繁沢元氏・元景父子から周防玖珂郡鳴川66石と同郡本郷34石、合計100石の地を与えられた。
 寛永2年(1625年)5月25日に死去。元良の死の4日後の5月29日には長男の元輔も死去し、次男の元重が家督を継いだ。

杉 興相 杉 元相

 杉弘相の子として生まれ、大内義興の偏諱によって「興相」と名乗る。
 永正4年(1507年)に大内義興の足利義稙を奉じた上洛に従い、永正6年(1509年)に大内義興が石清水八幡宮に青毛の神馬一疋を寄進した際には馬奉行を務めた。大永2年(1522年)頃に周防国佐波郡の大前と植松を領した。
 また、天文5年(1536年)の興隆寺二月会において大頭役を務めた。

 初名は隆相。豊前国の名族杉氏の一門で周防国を本拠とする「杉次郎左衛門家」に生まれて大内氏に仕え、防長経略以降は毛利氏に従う。大永2年(1522年)、大内氏家臣である杉隆宣の子として生まれる。主君の大内義隆から偏諱を受け、「隆相」と名乗った。
 天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦いでは、大内氏家臣として毛利元就の救援に向かい、小早川興景と共に吉田の坂・豊島に駐屯して尼子軍の攻撃に備えた。同年9月26日の池の内の戦いでは、小早川興景と共に尼子軍と戦い、吉田郡山城から出撃した粟屋元良,信常就程,岡光良,佐々木小四郎,門田源七郎,山県弥三郎,赤川元吉,羽仁元永ら毛利軍と共に挟撃して湯原宗綱を討ち取った。
 天文12年(1543年)5月7日、大内義隆の出雲攻め(第一次月山富田城の戦い)に従軍した父・隆宣が撤退中に出雲で戦死したことで、その跡を継いだ。
 天文20年(1551年)8月、陶隆房(陶晴賢)らによる大内義隆への謀反(大寧寺の変)では陶側に味方。同年9月に豊後の戦国大名・大友晴英(後の大内義長)が大内氏の家督を継ぐことが決定すると、大友晴英を迎える任についた。
 天文24年(1555年)10月1日の厳島の戦いには従軍せず、弘治2年(1556年)8月15日には大内氏から離反した秋月氏の出城と考えられる筑前国の千手城と馬見城攻めにおいて多数の死傷者を出した豊後萩原氏に対し感状を発給している。その後、毛利氏に降伏し、毛利隆元の偏諱を賜って「元相」と改名した。
 弘治3年(1557年)には周防国佐波郡大前と植松の旧領安堵に加えて、防長経略で大内義長に従って自害した大内氏家臣・野上房忠が領していた都濃郡の野上庄(後の徳山)と遠石庄を与えられ、杉氏の所領は3000貫(3万石相当)となった。元相は本拠を野上に移して金剛山の山麓に館を構え、城山の一ノ井手城を居城とした。
 永禄12年(1569年)5月の立花城の戦いでは小早川隆景の旗下に属し戦った。また、同年10月の大内輝弘の乱では、敗走する大内輝弘が佐波郡牟礼の浮野峠に来たところを、元相が約600の手勢を率いて椿峠に布陣し、大内輝弘の残存兵の逃亡を防ぎつつ攻撃し、近くの富海の海岸からは由宇の正覚寺守恩の手勢が攻め立てた。元相らの攻撃により大内輝弘は椿峠と富海の間にある茶臼山に逃れたが、吉川元春の大軍が山麓に肉薄するに及んで力尽き、自害した。
 天正2年(1574年)7月13日、野上の浄福寺全伯に依頼して一ノ井手に興元寺を建立し菩提寺とした。
 天正6年(1578年)に荒木村重が織田信長に反旗を翻すと、毛利輝元は荒木村重への援軍として水軍を派遣しており、村重の属城である摂津花隈城へは元相が派遣されている。また、天正年間に、織田信長によって京を追われた足利義昭の警護のため、備後国鞆に赴いたこともあった。
 天正13年(1585年)1月26日に病死し、菩提寺の興元寺に葬られる。享年64。家督は嫡男の元宣が継いだ。

杉 元宣

 初めは大内氏に仕えて杉 長相と名乗り、弘治元年(1555年)から始まる毛利元就による防長経略では、山代衆の残党と共に周防国玖珂郡宇塚の成君寺山城に籠って抵抗したが、毛利氏に降伏し、以後は毛利氏の家臣として父と共に忠勤に励む。
 天正12年(1584年)、児玉元良の娘・周姫(清泰院)と婚姻する。天正13年(1585年)1月26日に父・元相が病死すると家督と周防国都濃郡野上庄の所領を相続し、毛利輝元に仕えてしばしば軍功を立てた。同年11月19日に舅の児玉元良が死去している。
 天正16年(1588年)秋、周姫が元宣の妻になっても諦めきれない輝元は、家臣の佐世元嘉,杉山元澄・就澄父子らに命じて、周姫を奪い、自身の側室とした。
 主君とはいえ輝元の悪行に激怒した元宣は、周姫を取り戻すため、天正17年(1589年)3月1日に筑前国を出立し帰国の途についた。元宣の出立を知った小早川隆景は、血気にはやる元宣が帰国すれば如何なる珍事を起こすか知れないことから、元宣を不憫に思いながらも御家の大事のため、村上景親や井上景政らに追跡を命じ、元宣に追いつけば説得して連れ戻し、どうしても説得に応じない場合は討ち果たすよう命じた。事は主君相手の一大事であることから、元宣は父・元相の位牌や今まで世話になった者へ暇乞いをするために一度、野上庄に立ち寄ったが、野上庄を出立した際に海が荒れたため、粭島沖にある「大島の船隠し」と呼ばれる入り江に退避していた所を村上景親の船に追いつかれた。元宣は説得に応じなかったため、3月6日夜に殺害され、その後、杉氏の菩提寺である興元寺にある父・元相の墓の側に葬られた。
 なお、元宣の元妻・周姫は広島城二の丸に住んだことから、二の丸殿と呼ばれ、輝元との間に萩藩主・毛利秀就や徳山藩主・毛利就隆らをもうけた。
 元宣の死により、元宣の同族である杉元常が養子として家督を相続したが、元常が死去すると、「杉次郎左衛門家」は断絶した。