OU03:大内満盛 | 多々良正恒 ― 大内満盛 ― 杉 貞弘 | OU04:杉 貞弘 | ● |
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杉 貞弘 | 杉 興運 |
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一般に初代とされる杉貞弘は観応の擾乱当時に足利直冬の武将として記録される人物で、観応3年/正平7年(1352年)には同じく直冬配下の内藤藤時とともに対立勢力の大内弘世と度々交戦している。 |
応永の乱で活躍した杉豊後入道重運の子孫。周防国の大名・大内義隆(義興の子)に仕えて、筑前の守護代を務めた。居城は若杉山城。 |
杉 重矩 | 杉 重輔 |
周防・長門国を本拠とする戦国大名・大内氏の家臣。享禄3年10月14日(1530年11月3日)付の防府天満宮棟札に「杉七郎重信」の名が見えるのが史料上の初見である。 天文7年(1538年)12月に朝廷より従五位下の叙任を受ける。当初は「重信」と名乗ったが、天文8年(1539年)に「重矩」、天文22年(1553年)に「重将」と改名している。大内義隆に仕え、豊前の守護代として大友氏や少弐氏と戦った。 |
戦国大名大内氏の重臣・杉重矩の子として誕生。父・重矩は天文20年(1551年)の陶晴賢による主君・大内義隆殺害と、大友晴英(大内義長)の大内氏当主擁立(大寧寺の変)に加担したが、天文22年(1553年)に晴賢によって謀殺される。このことから重輔は晴賢を深く恨み、報復の機会を狙っていた。 |
杉 重良 | 杉 元良 |
天文23年(1554年)に大内氏家臣・杉重輔の子として生まれたが、弘治3年(1557年)に父・重輔が内藤隆世の軍に討たれたため、わずか4歳で家督を継ぎ、毛利元就に仕える。 |
毛利氏家臣で豊前松山城主となった杉重良の嫡男として生まれる。 |
杉 興相 | 杉 元相 |
杉弘相の子として生まれ、大内義興の偏諱によって「興相」と名乗る。 |
初名は隆相。豊前国の名族杉氏の一門で周防国を本拠とする「杉次郎左衛門家」に生まれて大内氏に仕え、防長経略以降は毛利氏に従う。大永2年(1522年)、大内氏家臣である杉隆宣の子として生まれる。主君の大内義隆から偏諱を受け、「隆相」と名乗った。 |
杉 元宣 | |
初めは大内氏に仕えて杉 長相と名乗り、弘治元年(1555年)から始まる毛利元就による防長経略では、山代衆の残党と共に周防国玖珂郡宇塚の成君寺山城に籠って抵抗したが、毛利氏に降伏し、以後は毛利氏の家臣として父と共に忠勤に励む。 |