<神皇系氏族>天神系

OD03:織田信秀  織田親真 ― 織田敏定 ― 織田信秀 ― 柘植正俊 OD12:柘植正俊

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柘植正俊 柘植正時

 『寛政重修諸家譜』掲載の享年から生年を逆算すると、父とされる織田信治とはわずか3歳差になってしまう。『寛永諸家系図伝』では織田与四郎行正の子とされる。織田三蔵、のちに柘植平右衛門と称する。
 はじめ三河国刈谷の水野信元に仕え、織田信長に仕えた際に津田姓を名乗るようにいわれるが、母方の柘植姓を名乗った。後に豊臣秀吉に仕える。慶長5年(1600年)に会津征伐ならびに関ヶ原の戦いで徳川家康に従軍する。それまで400石を知行していたが、慶長6年(1601年)に摂津国川辺郡他で加増をされ計900石を知行し、慶長9年(1604年)には切腹した息子・正勝の所領であった500石も加えられて計1400石となった。
 慶長16年(1611年)、駿府にて病没した。墓所は慈悲尾の増善寺。子孫は幕末まで旗本として存続した。

 摂津国に生まれる。慶長5年(1600年)に徳川家康に仕える。慶長14年(1609年)に父より家督を継ぎ、翌年駿府に出仕し、大坂の役に供奉した後に小姓組となる。元和2年(1616年)から徳川秀忠に仕え、寛永8年(1631年)に使番となり、同年11月に布衣を許される。
 寛永9年(1632年)より徳川家光に仕える。寛永10年(1633年)、1000石加増され計2400石となる。江戸城本丸修理奉行などを経て、寛永17年(1640年)6月12日に第14代長崎奉行に就任、同年大目付・井上政重とともに平戸に行き、西暦が記されていたオランダ商館の破壊を命じ、オランダ商館長フランソワ・カロンは、オランダ人200人を指揮し倉庫の物資を他所に移して商館を破壊した。以後、商館は出島に移ることになった。寛永19年(1642年)、病にて長崎奉行を致仕し、同年12月9日に没。享年59。墓所は大阪府吹田市の大雄院。