<神皇系氏族>天神系

OD03:織田信秀  織田親真 ― 織田敏定 ― 織田信秀 ― 織田信行 OD09:織田信行

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織田信行 織田信澄

 信長とは血を分けた兄弟である。信秀の生前から、信行は尾張国内に判物(公的文書の一種)を発給しており、一定の統治権を有していた。
 信秀の葬儀において、兄・信長が奇矯な行動をとった一方で、信行は礼儀に則った振舞いをしたという逸話はよく知られている。その後、末森城主となった信行は、兄の信長と尾張の支配権を巡って争った。一時は信長に代わって弾正忠家の当主を名乗ったが、稲生の戦いで敗北し、その後、信長に謀殺された。信行の人物像について詳細は伝わらないが、白山を信仰していたとされ、また鷹狩りについて高い技量を有していたという。

 享年に諸説あり、このために生年は確定することができないが、織田信長の甥にあたり、その嫡男である従兄弟の織田信忠とはほぼ同年代であったと考えられる。
 弘治3年(1557年)に父・信勝は謀反の企てを起こしたとして伯父・信長によって暗殺されるが、子供達は助命され、信長の命令により柴田勝家の許で養育された。
 元亀2年(1571年)、佐和山城を引き渡して織田家に降った浅井氏旧臣・磯野員昌の養嗣子となった。磯野姓を名乗っていたかどうかは不明。天正2年(1574年)3月27日に信長が東大寺正倉院の蘭奢待を切り取った際に重御奉行の「津田坊」とまだ童名で呼ばれているので、養子になるという約束だけで正式な縁組はまだ行われていなかった可能性はある。
 天正3年(1575年)7月、磯野員昌と共に越前一向一揆征伐に従軍した。これが信澄の初陣と思われる。越前一向宗との戦いでは、柴田勝家,丹羽長秀と鳥羽城を破って、5,6百の一揆勢を斬った。 同年9月25日、京から来た公家の吉田兼見を馳走して、信長への取次役を務めている。
 天正4年(1576年)1月14日、信澄が高島郡より上洛したことから、磯野家の所領に住んでいたことがわかる。天正6年(1578年)2月3日、磯野員昌が信長の叱責を受けて突如高野山へ出奔したため、その所領・高島郡がそのまま信澄に宛行われ、新庄城から移って、明智光秀の縄張りで新たに城を築いて大溝城主となった。また大溝城下に、比叡山延暦寺の飛地境内にあって(信長による)兵火に焼けた大善寺の別院を建立してその開基となった。
 以後は、津田あるいは織田姓を名乗っており、他の連枝衆と同じく、信長の側近としての務めと、信忠配下の遊撃軍団の一員としての両方の活動を行った。
同年4月4日、織田家当主・信忠に付き従い、石山本願寺攻めに参陣。8月15日の安土城における相撲興行では堀秀政,蒲生氏郷,青地与右衛門らと共に奉行を務めた。9月に信長が津田宗及宅を訪問した際にはこれに供奉した。それから10月から翌年11月までは、荒木村重討伐に従軍し、開城した摂津伊丹城には信澄が置かれて、村重の正室ら一族37名を捕えて京都に護送する役目を負った。また、この頃(または天正2年)に信長は明智光秀の娘と信澄とを結婚させている。
 天正7年(1579年)5月27日の安土宗論の時には警護役の1人だった。天正8年(1580年)8月の石山本願寺からの一向宗の退城の際に大坂に下向して、検使・矢部家定を警固した。以後、大坂に常駐し、耶蘇会宣教師は信澄を「大坂の司令官」と称している。
 天正9年(1581年)正月15日の左義長、2月27日の京都御馬揃えに参加。連枝衆の参加者で信澄は5番目に名前が挙がっており、10騎を率いて行進した。これは叔父・信包と従弟信孝と同格の扱いである。4月、和泉国の検地に逆らった槇尾寺の僧侶800名を信長の命令で皆殺にした後、5月10日、信澄,堀秀政,蜂屋頼隆,丹羽長秀,松井友閑で伽藍の部材を検分して使えそうな部材は没収し、その他の堂塔・僧坊を焼き払った。また6月、信澄は高島郡の国衆・多胡左近衛門を御内衆として召し抱えているから、高島郡の一職支配権を委ねられていたと考えられる。信澄は9月の伊賀攻めに従弟・北畠信意(織田信雄)の指揮下で従軍。鎮圧された後の10月、信長・信忠が伊賀国を検分した際にも同行した。恐らくこの時、信澄は信長に大和国の拝領を直訴したが、信長に「大和国は神国である」と諌められ、拒否されたと伝わる。
 天正10年(1582年)、甲州攻めでは信忠の指揮下に入らず、信澄らは信長に従って後から出張し、3月19日に上諏訪の法花寺に陣を構えた部将の中に名が見える。土佐国の長宗我部元親と信長の関係が決裂して、5月7日に従弟の神戸信孝を総大将する四国遠征軍が編成されると、丹羽長秀,蜂屋頼隆,信澄の3名が副将として付けられ、11日、信澄は住吉で四国に渡海する準備に入った。また、21日に安土の信長は、京都から堺に向かうという徳川家康の大坂での接待役を丹羽長秀と信澄に命じている。
 6月2日、舅の光秀が京都の本能寺、妙覚寺にいた信長、信忠を襲撃した本能寺の変が起こった。四国遠征軍は翌3日が淡路渡海の予定であったが、急遽中止される。信澄が光秀の娘婿であったことが災いし、市中には謀反は信澄と光秀の共謀であるという事実とは異なる噂が流れており、疑心暗鬼に囚われた信孝と長秀は、5日、信澄を襲撃して大坂城千貫櫓を攻撃した。信澄は防戦したが、丹羽家家臣・上田重安によって討ち取られた。謀反人の汚名を着せられたまま、信孝の命令で、堺の町外れに梟首とされた。享年は25とも28とも言う。
墓の所在も法名も伝わっていないが、現在、彼が開基となった大善寺には供養墓と慰霊の石碑が建てられ、6月5日の命日(信澄忌)には供養が行われている。

織田昌澄 津田元信

 父・信澄が大溝城主の時に誕生した。生母は明智光秀とその継室妻木煕子の娘のため、光秀と煕子の外孫にあたる。藤堂高虎の家臣として文禄の役に出陣する。後に藤堂家を去り、豊臣家に仕える。大坂冬の陣で高虎の部隊などと戦って活躍し、豊臣秀頼から褒賞を受ける。なお、大坂の陣に際し、長男・勘七郎は戦死している。大坂城落城後、徳川方に出頭するものの、高虎のとりなしを受けて徳川家康に助命された。以後、剃髪して道半斎と号する。
 元和4年(1618年)11月、将軍・徳川秀忠に旗本として召し抱えられ、近江甲賀郡内などで2000石を与えられる。以後、束髪して主水と称する。寛永18年(1641年)3月26日死去、享年63。次男信高が家督を相続した。  

 生母は明智光秀とその継室・妻木煕子の娘のため、光秀と煕子の外孫にあたる。織田昌澄と京極高知正室は兄弟。織田信雄に仕え、その改易後には豊臣秀頼に仕えた。
 大阪の陣では兄・織田昌澄は「主水」として、水・氷の調達および粥の調理をつかさどっていたが、元信は、昌澄の子の津田勘七郎と同じく「隷下(部下としてつき従う者)」であった。 大坂城落城後、徳川方に出頭するものの、藤堂高虎のとりなしを受けて、昌澄と共に徳川家康に助命された。 
 大坂の陣大坂方参戦者として、室町幕府・赤井豊後守の一門である赤井弥七郎と、越前国吉城主・粟屋勝久の孫である粟屋助大夫は、伊勢津藤堂家士になっていることと、藤堂高虎のとりなしを受けて徳川家康に助命された点から子孫は津藩に移住し、織田(おりた)を名乗ったと言われる。 

織田信兼
 織田信孝に仕える。本能寺の変直後に信孝が実兄の津田信澄を謀殺したが、信兼は変わらず信孝に仕え続けた。最期は信孝に殉じた。