| OD04:織田信長 | 織田親真 ― 織田敏定 ― 織田信秀 ― 織田信長 ― 織田信貞 | OD08:織田信貞 | ● |

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| 織田信貞 | 織田貞置 |
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天正10年(1582年)、父・信長が本能寺の変で死去したため、埴原(加賀守長久に養育されたという。信長の死後、埴原は織田信雄に仕えた。成長した信貞は、豊臣秀吉の馬廻の一人となり、近江国の神崎郡,蒲生郡内に1,000石の所領を与えられ、従五位下左京亮に叙任された。 |
寛永元年(1624年)、父・信貞の死去により、1,000石の領地を相続したとされ、同年、禁裏造営奉行を務めたともされる。寛永7年(1630年)、将軍・徳川秀忠に御目見し、後に小姓組に加えられたという。なお、寛永元年当時、父・信貞は浪人中で寛永7年に召し抱えとなった可能性もある。また、兄・信次は病弱で家督を継げなかった。 |
| 織田長迢 | 織田貞幹 |
| 万治2年(1659年)7月11日、部屋住ながら書院番に召し出される。後に父・貞置が高家に就任したことで解職となる。天和2年(1682年)6月2日、貞置の隠居により家督を相続する。弟・貞則に300石を分け与える。天和3年(1683年)2月13日高家職に就任し、翌月従四位下隼人正に叙任する。元禄5年(1692年)3月23日、高家職を辞職し寄合に所属する。元禄15年(1702年)6月23日隠居し、次男・長能に家督を譲る。以後、自斎と称する。享保3年(1718年)1月18日死去、享年77。父・貞置から茶道有楽流を学ぶ。 |
父の信次は織田信長の9男・織田信貞の長男であったものの、病弱のため弟の貞置に家督を譲った。貞幹は叔父の旗本・貞置の養子となり、貞置から茶道の有楽流を学んだ。 |
| 織田信任 | 織田主善 |
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安政2年(1855年)8月5日、家督を相続する。高家職に就くことなく、表高家衆として過ごした。 慶応4年(1868年)2月12日、明治新政府に対して領内の近江神崎郡河合寺村移住を願う。同年4月、上洛する。同年7月、明治新政府の許可を受けて、河合寺村に移住する。同年11月、中大夫(旧高家衆)の東京在住命令に対し、病気を理由に延期を願う。明治2年(1869年)1月、病気を理由に信任本人に代わり、養子栄太郎の東京移住を願うものの不許可となり、同年2月、領内の治安維持などを理由に京都における奉仕を願うものの、同様に不許可となる。 |
主膳は出家して宗恩寺の住職となったが、慶応4年(1868年)の彰義隊結成を聞き、還俗して参加した。上野戦争後は奥羽、箱館まで官軍と抗戦した。 |