<神皇系氏族>天神系

OD04:織田信長  織田親真 ― 織田敏定 ― 織田信秀 ― 織田信長 ― 織田信貞 OD08:織田信貞

リンク
織田信貞 織田貞置

 天正10年(1582年)、父・信長が本能寺の変で死去したため、埴原(加賀守長久に養育されたという。信長の死後、埴原は織田信雄に仕えた。成長した信貞は、豊臣秀吉の馬廻の一人となり、近江国の神崎郡,蒲生郡内に1,000石の所領を与えられ、従五位下左京亮に叙任された。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍に与して伏見城攻撃に参加して、戦後に改易された。『寛政重脩諸家譜』では、兄・信高と共に東軍に馳せ参じるべきところだったが、間に合わなかったので、戦後に美濃路を凱旋中の徳川家康に拝謁したとし、この時に信長の子であることに免じて死罪を逃れたようである。後に家康に召し抱えられ、寺領を食邑として与えられた。
 慶長19年(1614年)からの大坂の陣では徳川方として従軍した。寛永元年(1624年)に死去。享年51。京都東山区にあった上行寺に葬られたが、同寺は1914年に久遠寺と合併し、上行山妙祐久遠寺と改称した。墓地は織田家の菩提寺である京都大徳寺塔頭総見院にもある。
 信貞は微禄のまま亡くなっており、その孫の世代になって1,000石取りに復し、徳川氏に高家旗本として仕えて、分家も旗本として仕えた。

 寛永元年(1624年)、父・信貞の死去により、1,000石の領地を相続したとされ、同年、禁裏造営奉行を務めたともされる。寛永7年(1630年)、将軍・徳川秀忠に御目見し、後に小姓組に加えられたという。なお、寛永元年当時、父・信貞は浪人中で寛永7年に召し抱えとなった可能性もある。また、兄・信次は病弱で家督を継げなかった。
 千利休の高弟のひとりで台子の伝者とされる高橋玄旦からその点前を伝授され、慶安4年5月20日(1651年7月7日)、織田長益の孫の長好が没すると有楽流を継承し、信次の子で養子とした貞幹のほか、松本見休ら多数の門弟を抱えた。また、長益の茶説を貞置集としてまとめ、有楽流の茶流を後世に遺した。貞置以降のものを貞置流ともいう。
 寛文3年(1663年)12月19日、高家に就任する。同年12月25日、従五位下侍従に叙任される。延宝7年(1679年)3月15日、高家を辞職する。天和2年(1682年)6月2日に隠居し、養老料300俵を支給される。長男・長迢が家督を相続した。宝永2年(1705年)6月2日死去、享年89。墓地は東海寺清光院にある。以後、歴代の当主が同院に葬られた。明治期にいたり、十五基の供養塔が一つにまとめられた。
 「織田信長像」(名古屋市総見寺蔵)を描かせるなど、祖父・信長を大変に尊敬しており、信長や織田一門の事跡の収集に熱心であったという。さらに自分も同じ日に死ぬという形で、信長の命日を際立たせた形になった。3男・貞則,4男・貞輝は分家して旗本になった。また、養子貞幹(兄・信次の子)は尾張藩徳川家の家老になった。

織田長迢 織田貞幹
 万治2年(1659年)7月11日、部屋住ながら書院番に召し出される。後に父・貞置が高家に就任したことで解職となる。天和2年(1682年)6月2日、貞置の隠居により家督を相続する。弟・貞則に300石を分け与える。天和3年(1683年)2月13日高家職に就任し、翌月従四位下隼人正に叙任する。元禄5年(1692年)3月23日、高家職を辞職し寄合に所属する。元禄15年(1702年)6月23日隠居し、次男・長能に家督を譲る。以後、自斎と称する。享保3年(1718年)1月18日死去、享年77。父・貞置から茶道有楽流を学ぶ。 

 父の信次は織田信長の9男・織田信貞の長男であったものの、病弱のため弟の貞置に家督を譲った。貞幹は叔父の旗本・貞置の養子となり、貞置から茶道の有楽流を学んだ。
 後に尾張藩主・徳川光友に召し出されて、同藩の藩士になった。始めは嫡子・徳川綱誠の小姓となり、100石を与えられた。次第に加増されて最終的には4,000石になった。元禄9年(1696年)7月3日、国家老となる。宝永4年(1707年)12月23日、従五位下周防守に叙任される。享保3年(1718年)7月25日隠居し、長男・長恒に家督を譲る。以後、巻有と号する。菩提寺は、名古屋市中区の総見寺。 3男4女あり。長男の長恒は家督を相続、次男の長居は分家した。


織田信任 織田主善

 安政2年(1855年)8月5日、家督を相続する。高家職に就くことなく、表高家衆として過ごした。 慶応4年(1868年)2月12日、明治新政府に対して領内の近江神崎郡河合寺村移住を願う。同年4月、上洛する。同年7月、明治新政府の許可を受けて、河合寺村に移住する。同年11月、中大夫(旧高家衆)の東京在住命令に対し、病気を理由に延期を願う。明治2年(1869年)1月、病気を理由に信任本人に代わり、養子栄太郎の東京移住を願うものの不許可となり、同年2月、領内の治安維持などを理由に京都における奉仕を願うものの、同様に不許可となる。
 明治3年(1870年)9月、名前を弘と改める願書を提出した。同年、東京への移住願いを提出する。明治4年(1871年)5月3日、元家来の逆恨みに遭い、妻子(栄太郎を除く)ともに殺害された。同年5月7日、元家臣は捕えられて、死罪を命じられる。  

 主膳は出家して宗恩寺の住職となったが、慶応4年(1868年)の彰義隊結成を聞き、還俗して参加した。上野戦争後は奥羽、箱館まで官軍と抗戦した。