<神皇系氏族>天神系

A231:饒速日命  饒速日命 ― 漆部三見 NU01:漆部三見

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漆部床石足尼 漆部足人
 『本朝事始』による伝承では、倭武皇子が宇陀の阿貴山で狩猟の最中に大猪を射たが、止めを刺すことができなかった。そこへ部下の1人が漆の木を折ってその汁を矢先に塗り、再度挑戦すると仕留めることができたという。木の汁で皇子の手が黒く染まったため、皇子はその汁を部下に命じて集めさせ、持っている品物に塗ると、黒い光沢を放ちつつ染まっていった。そこで、その地を漆河原といい、漆の木が自生している宇陀郡の曽爾の郷に「漆部造」を置いた。床石足尼が漆部官になったことが伝えられている。

 飛鳥時代の豪族。姓は造。本拠地は大和国宇陀郡漆部郷で、現在の奈良県宇陀郡曽爾村にあたる。漆部造の家系は未詳であるが、物部氏との関係が深かった可能性が高い。
 『日本書紀』巻第二十一によると、用明天皇2年(587年)、用明天皇の病も重くなり、物部大連守屋と蘇我大臣馬子とが一触即発の事態が生じつつある中、守屋は河内国の阿都(大阪府八尾市跡部)へ退き、そこから使者として、物部八坂,大市造小坂,漆部造兄を蘇我大臣馬子の許に派遣している。その後、漆部兄がどうなったのかは、記録が残されていない。

漆部伊波 良辨

 天平20年(748年)、東大寺大仏殿建立に際して商布2万端を貢進した功労により、従七位上から外従五位下に叙せられる。
 淳仁朝では佐渡守・贓贖正を歴任する。また、天平宝字5年(761年)に難波津の交通の要衝である摂津国西成郡美努郷の堀江川添を東大寺から買得しており、伊波の広範な交易活動と東大寺との密接な関係がうかがわれる。
 天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱では孝謙上皇側に付き、乱の功労により内位の従五位下に叙せられ、翌天平神護元年(765年)には勲六等の叙勲を受けている。称徳朝では右兵衛佐を務める一方で、大和介・修理次官等を兼ねた。またこの間、神護景雲2年(768年)には漆部直から相模宿禰に改姓し、相模国造となっている。
 光仁朝では、宝亀2年(771年)に鼓吹正を任ぜられ、宝亀5年(774年)尾張守として地方官に転じた。

 持統3年(689年)、相武国造後裔の漆部氏の出身である漆部直足人の子として生まれる。鎌倉生まれと言われ、義淵に師事した。別伝によれば、近江国の百済氏の出身、または、若狭国小浜下根来生まれで、母親が野良仕事の最中、目を離した隙に鷲にさらわれて、奈良の二月堂前の杉の木に引っかかっているのを義淵に助けられ、僧として育てられたと言われる。東大寺の前身に当たる金鐘寺に住み、後に全国を探し歩いた母と30年後に再会したとの伝承もある。しかし現在では別人ではないかとされているなど、史実であるかは定かでない。ただし、幼少より義淵に師事して法相唯識を学んだのは事実である。
 さらに慈訓について学び、華厳宗の奥義を受ける。東山(奈良県生駒市)に隠棲し、自ら彫刻した執金剛神像を安置して、日々鍛錬して修行にはげみ、金鐘行者の異名をえたところ、聖武天皇の耳にとまり、羂索院を賜り、これがのちに改名されて金鐘寺となった。
 天平12年(740年)、『華厳経 』の講師として金鐘寺に審祥を招いた。聖武天皇の勅により、天平14年(742年)には金鐘寺が大和国分寺に指定。天平17年(745年)に律師となる。天平勝宝4年(751年)には、東大寺大仏建立の功績により東大寺の初代別当となった。天平勝宝8年(756年)には鑑真とともに大僧都に任じられる。その後、天平宝字4年(760年)8月に仏教界の粛正のために、慈訓・法進とともに、僧階(三色十三階制)を改めるよう奏上した。聖武天皇の看病禅師も務めている。
 近江志賀の石山寺の建立に関わったことも『石山寺縁起絵巻』や『元亨釈書』に詳しい。
 宝亀4年(773年)には、 僧正に任命され、その年の閏11月24日没。東大寺開山堂には「良弁僧正坐像」(国宝)が安置されている。伊勢原市の大山寺の開基とも言われる。

漆部麻呂 漆部道麻呂

 飛鳥時代の豪族。名は麿とも。姓は造。『日本霊異記』では「麿」と一文字で記されている。
 麿自身の生涯については、何も伝わってはいないが、妾である女のことについて『日本霊異記』に伝わる。
 側妻である女が高雅で気品に満ちた行いをし、7人の子供を育てて、貧しいながらも日常の暮らしを全うし、孝徳天皇の白雉5年(654年)にたまたま野草に混じっていた一枚の「仙草」を食べたら仙人になった、という往生譚である。どのような不遇な状況にあっても清く正しい生活をすることを勧めている話である。

 飛鳥時代の貴族。姓は造。官位は従五位下・遠江守。
 文武天皇4年(700年)、巡察使の奏上に基づいて、諸国の国司らが治績に応じて位階を進められ、あるいは封戸を与えられたが、この時に遠江守であった道麻呂は封戸20戸を、因幡守であった船秦勝は封戸30戸を与えられている。大宝4年(704年)従五位下に叙爵された。
 なお、淳仁朝の天平宝字8年(764年)、藤原仲麻呂の乱後に行われた叙位にて外従五位下に昇叙された官人に漆部宿禰道麻呂がいるが、位階・年代から見て明らかに別人である。