<神皇系氏族>天神系

NH02:滋野家訳  楢原久等耳 ― 滋野家訳 ― 望月重俊 NH11:望月重俊

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望月重俊 望月国親

 平安時代初期、貞観7年(865年)に、それまで8月29日に行っていた信濃国の貢馬の「駒牽」の儀式を満月(望月)の日8月15日に改めた。この日に駒牽された貢馬を「望月の駒」と呼び、朝廷への貢馬の数が最も多かったのが、信濃御牧の牧監とも伝えられる滋野氏であり、信濃十六牧の筆頭「望月の駒」を継承した一族に望月の姓が与えられた。
 海野信濃守幸恒の長男・海野小太郎幸明の次男の滋野直家は分家して小県郡祢津(根津)の庄を継承して根津氏(根津小次郎直家)を起こし、3男の滋野重俊は佐久郡望月邑(望月牧)を継承して望月氏(望月三郎重俊)を起している。特に海野氏,根津氏,望月氏を滋野三家といい、三家は緊密で、出陣の次第によると、海野氏が戦うときは海野幡中,左根津,右望月と称し、望月氏が戦うときは、望月幡中,左海野,右根津となり、祢津氏が戦うときは、根津幡中,左海野,右望月と、三家一丸となって外敵に当たったという。 

 当時の望月氏の勢力は同じ滋野御三家の海野氏,祢津氏を圧倒していた。源義仲が幼少の頃、平家に追われていた時、斎藤実盛は佐久郡に立ち寄り、佐久郡領主で信濃守を務める滋野御三家の望月国親と木曾を治める信濃権守の中原兼遠に駒王丸(のちの源義仲)を預け、後事を託した。望月・中原両家は、後の平宗盛や源義平からの引き渡し要求を拒否し守り抜いた。後に挙兵した時に源義仲軍の中核(望月家傍流の根井行親と行親の子・楯親忠は義仲四天王の一員)にあったのは、この頃からの忠節も関係してくる。
 国親は治承4年(1180年)に以仁王の令旨を受けた義仲挙兵に際して、長男・重忠,次男・重義、3男・重隆らと共に義仲に招かれて従軍している。治承5年(1181年)、国親は海野幸広らと共に滋野党2000騎を率いて義仲率いる木曾衆と合流、合わせて3000騎を率いた義仲は平家方の城長茂(越後勢)の大軍に横田河原の戦いで大勝する。
 信濃白川横田河原での戦闘前、義仲の父・源義賢の遺領である上野多胡郡を攻略するが、寿永2年3月(1183年3月)、源義賢が上野を追われる事になった時の怨恨から鎌倉侵攻を恐れた源頼朝が(武田信光の讒言を口実に)義仲の嫡男・義高を頼朝の娘・大姫と婚姻させ、鎌倉に住まわせる(義高人質)という事実上の降伏勧告を行うことで、木曾の源氏軍と和睦を行い、形だけでも臣下の礼を執る事で源氏の長者として、鎌倉以外の源氏最大勢力を臣下に治めた事実を背景に本格的な降伏勧告を全国の武士に執り始めた。
 この和睦に際して、義仲は義高の身を案じ、従兄弟の海野幸親の3男・海野幸氏や滋野一族の実質中心的存在の望月国親の3男・重隆を追随させることで、滋野御三家の顔を立て一つの巨大な軍隊としてまとめることに成功する。
 木曾の旗挙から主要な戦いを共にし敗戦濃厚となった水島の戦い、朝廷(後白河法皇)との関係が修復不可能となった法住寺合戦の後、瀬田の戦い・宇治川の戦いから追撃してきた大手軍大将・源範頼や搦手軍大将・源義経と近江国粟津で戦闘(粟津の戦い)になり、殿軍を務め討ち死にした。 

望月重隆 望月昌頼

 平安時代末期から鎌倉時代にかけての武士・御家人。当初は木曾義仲に仕え、義仲が鎌倉に嫡男・義高を人質に出した際、同族の海野幸氏と共に随従する。望月氏や同族の海野氏が義仲に重用されたのは、望月牧の馬にあった。当時、1500頭の馬を常時飼育しており、義仲に動員されていた。
 義仲没落後は鎌倉幕府の御家人となる。文治4年(1188年)、奥州合戦に従い、建久5年(1194年)の安田義定・義資父子の謀反を幕命により追討している。
 建久5年(1194年)10月9日、源頼朝が小山朝政ら弓馬の心得がある御家人に、流鏑馬の故実を議論させており、この中に「望月重澄」という人物が列しており、重隆に比定されている。重隆は弓の名手で鶴岡八幡宮の放生会や流鏑馬、弓初めの射手に選ばれるほどの腕前で、建久6年3月(1195年)の源頼朝上洛の際は住吉大社での流鏑馬で東国の代表者として幸氏と共に参加した。同年の3月10日には、海野幸氏らと共に頼朝の東大寺参詣へと随行している。8月には鶴岡放生会に供奉し、射手となった。建仁元年(1201年)1月12日,建仁3年(1203年)1月3日の幕府弓始にて三番射手として名を連ね、同年10月9日にも二番射手として名が見える。元久元年(1204年)1月10日には、吾妻鏡にのみ登場する謎の多い弓の名手である吾妻四郎助光とともに、弓始にて三番射手を務める。また同年2月10日、源実朝が由比ガ浜にて笠懸を開催した際にも射手を務めた。「望月弓上手」と呼ばれ、海野幸氏,武田信光,小笠原長清と並んで「弓馬四天王」と称された。 

 甲斐国の武田晴信(信玄)が、天文11年(1543年)に信濃諏訪郡を制圧すると、翌天文12年(1544年)には佐久・小県郡への侵攻を開始する。昌頼は長窪城主の大井貞隆と共に甲斐武田氏に抵抗するが、同年9月19日には長窪城が落城して貞隆は捕縛され、昌頼も本拠の望月城から逃れたと考えられている。
 その後は貞隆と同じ岩村田大井氏で小諸城主・大井高政を頼って小諸へ逃れるが、ほどなく出家。旧領復帰を果たす事なく、天文14年(1546年)あるいは翌天文15年(1547年)の文書を最後に消息不明となる。 

望月信雅 望月信頼

 望月氏宗家の望月昌頼に仕え、天文12年(1543年)に長窪城主・大井貞隆と共に武田晴信(信玄)の侵攻に抵抗するが、望月城が落城すると、弟の新六らと共に布引城へ逃れる。以降も甲斐武田氏への抵抗を続けるが、天文17年(1548年)、真田幸隆の仲介を得て武田氏に降伏し、望月氏惣領を継承する。武田氏に臣従後、武田晴信の偏諱を受け信雅と名乗った。
 武田信繁の子・義勝を養子とするが、永禄4年(1561年)に信頼(義勝)が急逝すると、その実弟・信永を養子として家督を譲り出家した。天正3年(1575年)、長篠の戦いで信永が戦死すると復帰し、その実兄・武田信豊と共に望月領を治めた。
 天正10年(1582年)の甲州征伐で武田氏が滅亡すると、続く天正壬午の乱では後北条氏に仕えるが、間もなく依田信蕃の斡旋で徳川家康に仕える。織田・徳川の連合軍が信州を平定した後、同10年10月24日には家臣・村田但馬守に知行を与えている。
 天正12年(1584年)5月18日、村田但馬守に大日向の地を与え、7月12日には、原宮に一貫五百文の地を寄進している。その後、家禄800貫を依田氏に託し、弟・新六らと共に駿河国庵原郡の山中に遁世した。永禄元年(1558年)には佐久郡の布引観音を再興している。 

 天文13年(1544年)、武田信玄の弟・武田信繁の長男として生まれる。母は望月盛昌の娘。元服後は武田義勝を名乗るが、永禄3年(1560年)、信濃佐久郡の名族望月氏の望月信雅の養子となり、望月姓を名乗る。弟(信繁の次男)の母が正室であるのに対し、信頼と信繁の3男である望月信永の母は望月氏当主であった望月盛昌の娘であったため、望月城の当主となっていた望月信雅の養子になったと考えられている。
 翌永禄4年(1561年)9月10日の第4次川中島の戦い(父の武田信繁が戦死)に参陣するが、直後の9月21日に死去した。享年18。死因は病死とも、川中島における戦傷ともいわれる。
 子が無かったため実弟(武田信繁の3男)が望月信雅の養子(後の望月信永)として望月家に入り、のちに家督を継いだ(信頼自身は家督相続前であった)。

望月信永 根井行親

 武田信玄の弟・武田信繁の3男として生まれる。永禄7年(1564年)に実兄で望月氏の養子となっていた望月信頼が死去したため、翌永禄8年(1565年)、望月信雅の娘を妻とし望月氏の家督を継承した。この時14歳だったという。信永は御親類衆として騎馬60騎を率いる旗本だった。
 天正3年(1575年)5月21日、長篠の戦いにて討ち死。享年24。この後、実兄の武田信豊が望月氏の名代となった。長野県佐久市望月に現存する寺院・信永院は信永が開基と伝わる。
 愛知県北設楽郡の東栄町と豊根村の境にある御園峠は望月峠とも呼ばれ、長篠の戦いに敗れた武田家臣・望月右近大夫がこの地で落ち武者狩りにあって自刃したという伝承がある。その際、右近大夫は信州の風が吹く場所に埋めてくれるよう言い残したといい、これを祀った祠が御園峠に残る。この右近大夫が信永とされている。 

 木曾義仲揮下の有力家臣にして、木曽義仲の四天王といわれるのが一般的であるが、年齢的に見ると、根井行親の長男で根井小弥太,6男・盾行忠,樋口二郎兼光,今井四郎兼平の4名が四天王とした方が的確かもしれない。なお、滋野氏嫡流の海野幸親(滋野行親)と同一人物とする説もある。
 保元元年(1156年)の保元の乱では源義朝に従い、活躍したという。治承4年(1180年)、信濃国小県郡丸子の依田城で挙兵して以後、義仲に従い各地に転戦、養和元年(1181年)9月水津の合戦で平通盛,経正らを破る。
 元暦元年(1184年)の宇治川の戦いでは、義仲の命を受け、子・楯親忠や源義広らと共に300余騎で宇治の防衛に当たったが、2万5千騎の源義経軍を防ぎきれず宇治川を突破された。この際、一族の武将らに前後して敗死したとされている。この戦いでは先陣を焦った頼朝方の武将畠山重忠の馬(磨墨)を射たという。
 同年1月26日、義仲や今井兼平,高梨忠直らと共に東洞院の北にある獄門の木に梟首された。長野県佐久市には、行親の供養塔と伝わる多層塔が現存する。 

落合兼行 楯 親忠

 源義仲の重臣。木曽谷の西の入り口の美濃国恵那郡落合村に館を構え(館は信濃国佐久郡の落合という説もある)、落合五郎兼行と称した。樋口兼光,今井兼平と共に源義仲の家臣として仕える。一説には、中原兼遠の子が兼行で、義仲が側近の家来として落合に居住させ、その地一帯の地盤を固めたとも伝えられている。
 治承4年(1180年)の義仲挙兵時より参戦し、白鳥河原の勢揃、源平盛衰記の横田河原軍の條に、『木曾は、落合五郎兼行・塩田八郎高光.望月太郎を先として信濃上野両国の勢を、催集め二千余騎、白鳥河原に陣をとる』と記述がある。
 その後、倶利伽羅峠の戦い,篠原の戦いなどに参戦した。
 義仲敗死後については諸説があり、義仲の死去前後に討死にしたとする説、木曾谷に逃れて萱ヶ平に隠れたという説、更級郡の今井に逃れ、その子の兼善が親鸞の弟子となったという説などがある。

 義仲四天王の一人。義仲の敗死後に、行親の妻は義仲子孫と共に上野国(群馬県渋川市北橘)に逃亡している。渋川市内に楯親忠の供養塔がある。長野県南佐久郡佐久穂町辺りに屋敷を構えていた。