<神皇系氏族>天神系

NH02:滋野家訳  楢原久等耳 ― 滋野家訳 ― 禰津道直 NH10:禰津道直


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禰津道直 禰津宗直
 初代根津神平道直が平安時代末期の保元の乱・平治の乱で源義朝に従い活躍した記載があり、治承・寿永の乱では、源義仲の挙兵に際し、香坂(高坂)氏の祖となった根津次郎貞行,根津三郎信貞が随伴し横田河原の戦いに参戦した。 

 建久元年(1190年)の源頼朝上洛の際には2代当主・貞直の嫡子と思われる根津次郎宗直,小次郎宗道が活躍したことや承久の乱にも根津三郎が参陣したことなどが『吾妻鏡』などにも記載されている。
 また、宗直は鷹匠としてもその名を馳せ、功績が認められ美濃守にも任官している。 

禰津元直 根津政直

 天文10年(1541年)、甲斐国の武田信虎の小県侵攻(海野平の戦い)に敗れたが、同じ諏訪神党の諏訪頼重を通じて武田氏に臣従して、武田信廉に附属し知行を安堵された。
 『高白斎記』天文11年(1542年)12月15日条によれば、娘が武田信虎の嫡男・武田晴信(信玄)の側室として嫁ぎ、「禰津御寮人」と呼ばれた。『高白斎記』には「禰津より御前様」が輿入れしたとされているが、これは禰津御寮人に比定する説のほか、諏訪頼重の娘である諏訪御料人に比定する説もある。
 天文22年(1553年)8月16日には信濃庄内に1000貫文を与えられる。

 根津政直は天文10年(1541年)の海野平の戦いで村上義清と戦って敗北し、同族の真田幸綱らと共に上野国吾妻郡に逃亡した。父・根津元直は降伏。諏訪氏猶子として本領安堵されている。
 逃亡から4年後の天文14年(1545年)に、新たな当主となった武田晴信(信玄)に臣従し、原隼人正の配下の信濃先方衆となった。その後は武田氏に従い諏訪攻め、西上野侵攻など主要な戦いに参戦し、武田氏の勢力拡大を支えた。政直の父・根津元直は妹を武田晴信の側室に送り込み、また、政直自身も武田信虎の娘を正室として迎え、武田氏との関係を深めた。
 永禄10年(1567年)8月には武田家臣団が信玄に対する忠誠を誓った生島足島神社に奉納した起請文を提出しており、根津氏では出家名「松鴎軒常安」で単独起請文を提出している。『甲陽軍鑑』によれば、常庵の舅にあたる武田信虎は天正2年(1574年)3月5日に高遠において死去しているが、信虎が死去したのは常安の屋敷であったとされる。
 翌天正3年(1575年)に嫡子・月直が長篠の戦いで討死を遂げた。そのため、信濃の本領を弟・信忠の子・昌綱に譲って隠居した。天正10年(1582年)の織田信長による甲州征伐の際は、信濃北部の飯山城に城代として居り、上杉景勝への援軍要請に当たったため、難を逃れている。
 武田氏滅亡後の天正11年(1583年)、政直は徳川家康に臣従した。また、徳川家臣になると、「禰津」から「根津」に姓を変えている。その後は、駿河国厚原,甲斐国黒沢等に計350貫の所領を得るが、家康の関東移封後、上野国豊岡に5000石の所領を得る。本家の家督は弟・信忠の子・昌綱が継ぎ、上野豊岡は隠居後に生まれた子・信政が継ぎ、のちに上野豊岡藩を立藩した。
 鷹術は『日本書紀』によると4世紀に渡来人により広められ、根津氏は代々、諏訪氏の猶子として神氏(諏訪神党)を名乗り、第2代当主である根津神平貞直が根津・諏訪流を開いた。根津松鴎軒常安は、多数の弟子を育成し、その鷹術を後世に広めた。

根津信光 根津幸直

 根津昌綱(根津信光)は、当時、叔父であり、当主であった根津松鴎軒常安の嫡子・根津月直が長篠の戦いにおいて討死をしたため、家督を継いだ。本来家督を継ぐべきは、昌綱の父である根津志摩守信忠であったが、一族の真田幸隆の娘を妻に迎えたものの、元来病弱で、妻の兄弟である真田昌幸に招かれ、岩櫃城下に根津屋敷「志摩小屋」を与えられ、潜竜斎を名乗って出家の身となったため、息子である昌綱が家督を継ぐことになった。
 当主となった昌綱は、旧武田氏遺領をめぐる天正壬午の乱で徳川氏,後北条氏,上杉氏などの狭間の中で、生き残りをかけ転々と主君を替え領土拡大を図った。その後、真田昌幸が徳川氏傘下となると、これを嫌がり再び上杉景勝に属したが、最終的には天正13年(1585年)7月15日、景勝の説得仲裁により、同年9月5日、遂に昌幸に同心し禄高3500石で家老となり重用された。
 昌綱の子息(長右衛門信秀?)は真田家次席家老の小山田茂誠の娘を娶り家督を継いだ。子孫は松代藩の家老や目付となった。

 兄の昌綱は禰津本家を継ぎ、織田信長没後の天正壬午の乱を経て後北条氏,徳川氏,上杉氏の元を渡り歩いたが、最終的に共に上杉氏配下となった真田氏の家臣となった。
 天正17年(1589年)、真田氏の沼田領が豊臣秀吉による裁定で沼田の知行を失ったため、11月3日に小県郡と佐久郡で150貫文を真田昌幸から与えられているのが史料上での初見だという。幸直は真田信幸の元で上野支配を担当した一人であり、信幸の正室・小松殿が輿入れした際に奉行をつとめたという。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは信幸と共に東軍に属し、以後、信之朱印状の副状を出すなど信之の近臣として重用されていたようである。元和元年(1615年)の大坂夏の陣の後、沼田・吾妻領内に潜伏している豊臣方の浪人捜索を出浦昌相と共に命じられている。
 嫡男の幸豊は大坂夏の陣で討死し、子の宮内は沼田藩主・真田信直に仕えたという。次男の幸好は真田信之の命で大坂方についた真田信繁への内通疑惑がかけられた家老の宮下藤右衛門尉を信之の御前で成敗した。 

春日貞幸 香坂高宗

 源頼朝に従い、文治元年(1185年)10月の勝長寿院の落慶供養や、建久6年(1195年)3月の東大寺再建供養に供奉する。
 承久3年(1221年)の承久の乱では、信濃から北条泰時の元に駆け付け東海道軍に合流した。6月14日の宇治川では、泰時の命により伏見津に急行し、宇治川渡河の際に敵の矢が乗馬に当たり、水中に沈むが、従者に引き上げられた。この時、子の春日小三郎,春日太郎が戦死している。泰時が渡河を強行しようとした際には、その乗馬を隠して引き留めて危急を救い、しばらくして泰時は筏によって渡河し、朝廷軍に勝利した。また6月17日には佐々木信綱と芝田兼義の先陣争いの証言を求められている。恩賞として上野国内に70町歩を賜り、のちに信濃国小川荘内に替えられた。

 信濃国大河原城主。信濃宮宗良親王を30年に渡って庇護した南朝の忠臣として知られる。
 建武3年(1336年)に南朝方(北条残党)として牧城で挙兵した香坂心覚が記録に残されている。高宗の伊那香坂氏は戦いに敗れて伊那谷に逃れた香坂心覚の一族とする説や、香坂氏の本拠地に立ち寄った宗良親王に高宗らが同行して伊那谷に至ったとする説もあるが、根津氏では無く望月氏の傍流とされている点や時代的な関係(香坂心覚より前から存在していた可能性)から、香坂心覚との直接的な関連は定かではない。 高宗は、興国4年/康永2年(1343年)の冬に居城の大河原城に後醍醐帝の皇子・宗良親王を迎え、更に奥地の内ノ倉(現在の御所平)に仮御所を設け、諏訪神党に連なる知久氏や桃井氏など周辺の南朝方諸族らと共に宗良親王を庇護し続けた。宗良親王には、「信濃宮」以外に大草郷に由来する「大草の宮」、香坂に由来する「幸坂の宮」との呼び名がある。
 高宗自身の戦功は伝わっていないが、宗良親王に従って各地を転戦したと思われる。また親王を奉じた大河原の地は、信濃のみならず東国・北陸道の各地で戦う南朝方の策源地となったとされる。宗良親王は越後・信濃などの南朝勢力を結集し、正平7年/文和元年(1352年)に武蔵野合戦に出陣したが敗れて信濃に逃げ帰り、正平10年/文和4年(1355年)には、北朝方の信濃守護家・小笠原長基との決戦(桔梗ヶ原の戦い)に及ぶが、敗北を喫する。正平24年/応安2年(1369年)には関東管領で信濃守護職の上杉朝房が大河原に攻め寄せるが、高宗は大河原の地を守り抜いている。
 文中3年/応安7年(1374年)、失意のうちに宗良親王は吉野に去るが、その後も度々大河原の地を訪れていたとされ、親王終焉の地の有力候補となっている。高宗は応永14年(1407年)に大河原城にて死去したとされる。大鹿村の伝承では、少なくとも2人の子がいたとされ、第2子・松平二郎の居館跡が現在の松平神社であるという。

香坂宗重 高坂昌信

 信濃の名族滋野氏の流れを汲み、根津氏の庶流と伝えられる香坂氏の当主。宗重が記録に登場するのは、弘治2年(1556年)5月12日付けで川中島八郎丸の内に知行替えする武田信玄の書状である。香坂氏がいつから武田氏に臣従したかは確かな記録が無いが、この時に武田氏に臣従して知行替えが行われたものと推定されている。
 また、松代に移った後に香坂氏が建てた城(館)は「弾正館」と呼ばれていることから、香坂氏の娘を娶ったとされる春日弾正忠虎綱との関係もこの時期には結ばれていたと思われる。この「弾正館」は、翌年の弘治3年(1557年)の第3次川中島の戦いで焼失したとされ、香坂氏も武田方として出陣していると思われる(記録には無い)。この後、所領のある松代に武田方の拠点となる海津城が築かれ、永禄3年(1560年)6月15日付けの300貫の所領を与えるとする信玄の知行宛行状が残されている。
 永禄4年(1561年)5月、上杉氏との密通の嫌疑により海津城で誅された。 

 武田四天王の一人として数えられる。一般に「高坂昌信」の名前で知られるが、姓については「高坂」または「香坂」姓を用いたのは最も長くて弘治2年(1556年)から永禄9年(1566年)9月までの11年間である。この「高坂」または「香坂」姓は信濃国更級郡牧ノ島の香坂氏の家督を継承していることに由来する。香坂氏は武田領と反武田の北信濃国人・上杉謙信との境目に位置しつつ唯一武田側に属しており、虎綱が養子に入った背景にも香坂氏の川中島地域における政治・軍事的立場が考慮されたと考えられている。
 香坂氏に養子に入った時期は『甲陽軍鑑』によれば、永禄4年(1561年)に香坂氏が上杉謙信に内通し成敗された時点、または弘治2年(1556年)に小山田昌行が水内郡海津城から雨飾城に番替えとなった後任として海津城代となり、この時点で「高坂」を称していたとしている。仮名として弾正を名乗っていたとされ、永禄2年(1559年)まで「弾正左衛門尉」を称し、同年以降には「弾正忠」に改めている。名については、確実な文書上からは実名は「虎綱」であることが指摘されており、春日虎綱または香坂虎綱となる。
 『甲陽軍鑑』に拠れば、大永7年(1527年)、甲斐国八代郡石和郷の豪農・春日大隅の子として生まれる。天文11年(1542年)に父の大隅が死去した後、姉夫婦との遺産を巡る裁判で敗訴して身寄りが無くなるが、信玄の近習として召抱えられたという。
 はじめは使番として働き、天文21年(1552年)には100騎持を預る足軽大将となる。武田氏による埴科郡の村上義清攻略が本格化した天文22年(1553年)には信濃佐久郡小諸城の城代となる。同年4月に虎綱が名跡を継承することになる信濃更級郡牧野島の国人の香坂氏が武田家に出仕している。
 その後、虎綱は香坂氏をはじめとする川中島衆を率いて越後上杉氏に対する最前線にあたる海津領の守将を任された。川中島衆となる北信の寺尾・屋代両氏の取次役を務めている。海津城は武田氏と上杉氏の争いにおいて最前線に位置し、『軍鑑』に拠れば永禄4年(1561年)8月には上杉謙信が侵攻し、虎綱は海津城において籠城し、同年9月4日には川中島において第4次川中島の戦いが発生する。『甲陽軍鑑』によれば、妻女山攻撃の別働隊として戦功を挙げ、引き続き北信濃の治世にあたったという。
 『敵に塩を送る』という”ことわざ”は、高坂弾正が川中島の戦いの最中に上杉家に対して行った弔意(戦場に残された6~8千の遺体を敵味方なく手厚く葬った)に対し、義に篤い上杉謙信が高坂弾正の行動に感激し北条・今川の包囲網によって塩を絶たれて困っていた甲斐の国に塩を送ることを決めたという逸話による。
 その後も元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いなど、武田氏の主だった戦いに参戦したという。
 信玄死後の勝頼期にも海津城代として上杉氏に対する抑えを任されている。天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いには、上杉軍の抑えとして参戦せずに海津城を守備していたが、嫡男の高坂昌澄が戦死している。『軍鑑』によれば、武田勝頼期には春日虎綱らの老臣は疎まれていたという。勝頼は長篠の戦い敗戦後に信濃へ逃れ、6月2日に甲府へ帰陣するが、春日虎綱は敗報を聞くと、信濃駒場において武田勝頼を出迎え、衣服・武具などを替えさせ敗軍の見苦しさを感じさせないように体面に配慮し、五箇条の献策を行ったとする逸話がある。虎綱の献策には、相模国の後北条氏との同盟を強化することと、戦死した内藤昌豊,山県昌景,馬場信春らの子弟を奥近習衆として取り立てて家臣団を再編すること、および戦場離脱したとされる親族衆の穴山信君,武田信豊の切腹を申し立てたとしている。
 天正6年(1578年)の上杉謙信死後に発生した上杉家における御館の乱において、武田信豊とともに上杉景勝との取次を務め、甲越同盟の締結に携わった。ただ、虎綱が甲越間の交渉に携わっている天正6年6月8日付の北条高広・北条景広宛上杉景勝書状を最後に史料からは消え、6月12日付の武田信豊書状では信豊単独で交渉に携わっており、同年10月からは虎綱の子の信達が登場することが確認され、同年6月14日に海津城において死去したとされる。享年52。
 春日氏は次男の信達が継承し海津城代も務めるが、天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後は森長可の支配を受ける。同年6月の本能寺の変後、信達は美濃に撤退する森長可を妨害し、越後の上杉景勝に属したが、7月13日、北信での自立を画策する武田遺臣の真田昌幸や北条氏直らと内通したことが発覚し、激怒した上杉景勝によって誅殺され、これにより高坂氏嫡流は滅亡した。さらに慶長5年(1600年)3月、初代川中島藩主として北信濃に入った森長可の弟の森忠政は、信濃に残っていた信達の一族を残らず探し出され18年前に森長可の信濃撤退を妨害した罪で一族全員が磔刑に処された(『森家先代実録』)。ただ、実際に川中島藩成立は慶長5年9月以降のため、この内容は信憑性にかける。
 『甲陽軍鑑』は江戸時代の元和年間に成立した軍学書であるが、奥書によれば、原本は虎綱の口述記録で、長篠合戦の後に武田氏の行く末を危惧した虎綱が勝頼や重臣の跡部勝資,長坂光堅らに対する「諫言の書」として記したという。虎綱の死後も甥の惣次郎と家臣・大蔵彦十郎が執筆を継続し、虎綱の海津城代時代の部下である小幡昌盛の子の小幡景憲がこれを入手し、完成させたという。

高坂昌元

 長兄の昌澄が天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで戦死したために世子となる。勝頼期には越後上杉氏の御館の乱において出兵し、虎綱は上杉景勝との外交取次を務めていたが、天正6年(1578年)に虎綱は死去し、昌元は家督・海津城代を継承して上杉方との外交を務め、甲越同盟の締結に至る。翌天正7年(1579年)3月までには海津城代が安倍宗貞に交代し、駿河国東端の三枚橋城の城代となり北条氏に対処する。
 天正10年(1582年)2月から織田信長による甲州征伐が開始されると、昌元は2月28日に三枚橋城を放棄して本国である甲斐防衛のために新府城に馳せ参じて勝頼と同行を願い出るが、勝頼側近の長坂光堅の進言により退けられたという。武田氏滅亡後は織田信長に降伏し、北信濃の新たな領主となった織田家臣の森長可に属した。
 同年6月の本能寺の変で織田信長が死去し、さらに一向宗門徒や旧武田家臣団などによる一揆と上杉景勝の侵攻を危惧し、森長可が領地を捨てて美濃国へ逃亡しようとすると、昌元は信濃国人衆を母体とした一揆勢を率いてその撤退を阻止した。そこで森長可は昌元の息子である森庄助(森姓は森長可が烏帽子親のため)をはじめとする人質を使って交渉の席を作り出し、家臣である大塚次右衛門を一揆衆への交渉役として遣わせる。大塚は昌元の裏切りをその席で糾弾するなど終始強気の態度であり、ひとまず松本での人質の解放は約束されたが「森軍には手出しをしない」という条件を飲まされることとなった。しかし、一揆衆は納得しておらず猿ヶ馬場峠で森長可と戦に及ぶも撃退される。そこで再度、大塚と一揆衆の会談の席が設けられ、大塚は手出し無用の事を強く言明した。しかしながら、森長可は昌元の裏切りそのものに強く不快感を持っており、松本に着くと約束を反故にし森長可自ら森庄助を殺すと、森軍は他の人質も悉く殺しそのまま北信濃から撤退していった。
 その後、昌元は上杉景勝に属したが、同年7月に相模国の後北条氏が信濃佐久郡へ出兵すると、昌元は北条氏直に内通する。『武徳編年集成』によれば、昌元は武田遺臣の真田昌幸により調略されたという。昌元内通の際に後北条氏からの使者が上杉方に捕縛されたため内通が露見し、7月13日に上杉景勝の陣所を尋ねた昌元は誅殺された。これにより、高坂氏嫡流は滅亡した。