| NH02:滋野家訳 | 楢原久等耳 ― 滋野家訳 ― 禰津道直 | NH10:禰津道直 | ● |


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| 禰津道直 | 禰津宗直 |
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| 初代根津神平道直が平安時代末期の保元の乱・平治の乱で源義朝に従い活躍した記載があり、治承・寿永の乱では、源義仲の挙兵に際し、香坂(高坂)氏の祖となった根津次郎貞行,根津三郎信貞が随伴し横田河原の戦いに参戦した。 |
建久元年(1190年)の源頼朝上洛の際には2代当主・貞直の嫡子と思われる根津次郎宗直,小次郎宗道が活躍したことや承久の乱にも根津三郎が参陣したことなどが『吾妻鏡』などにも記載されている。 |
| 禰津元直 | 根津政直 |
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天文10年(1541年)、甲斐国の武田信虎の小県侵攻(海野平の戦い)に敗れたが、同じ諏訪神党の諏訪頼重を通じて武田氏に臣従して、武田信廉に附属し知行を安堵された。 |
根津政直は天文10年(1541年)の海野平の戦いで村上義清と戦って敗北し、同族の真田幸綱らと共に上野国吾妻郡に逃亡した。父・根津元直は降伏。諏訪氏猶子として本領安堵されている。 |
| 根津信光 | 根津幸直 |
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根津昌綱(根津信光)は、当時、叔父であり、当主であった根津松鴎軒常安の嫡子・根津月直が長篠の戦いにおいて討死をしたため、家督を継いだ。本来家督を継ぐべきは、昌綱の父である根津志摩守信忠であったが、一族の真田幸隆の娘を妻に迎えたものの、元来病弱で、妻の兄弟である真田昌幸に招かれ、岩櫃城下に根津屋敷「志摩小屋」を与えられ、潜竜斎を名乗って出家の身となったため、息子である昌綱が家督を継ぐことになった。 |
兄の昌綱は禰津本家を継ぎ、織田信長没後の天正壬午の乱を経て後北条氏,徳川氏,上杉氏の元を渡り歩いたが、最終的に共に上杉氏配下となった真田氏の家臣となった。 |
| 春日貞幸 | 香坂高宗 |
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源頼朝に従い、文治元年(1185年)10月の勝長寿院の落慶供養や、建久6年(1195年)3月の東大寺再建供養に供奉する。 |
信濃国大河原城主。信濃宮宗良親王を30年に渡って庇護した南朝の忠臣として知られる。 |
| 香坂宗重 | 高坂昌信 |
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信濃の名族滋野氏の流れを汲み、根津氏の庶流と伝えられる香坂氏の当主。宗重が記録に登場するのは、弘治2年(1556年)5月12日付けで川中島八郎丸の内に知行替えする武田信玄の書状である。香坂氏がいつから武田氏に臣従したかは確かな記録が無いが、この時に武田氏に臣従して知行替えが行われたものと推定されている。 |
武田四天王の一人として数えられる。一般に「高坂昌信」の名前で知られるが、姓については「高坂」または「香坂」姓を用いたのは最も長くて弘治2年(1556年)から永禄9年(1566年)9月までの11年間である。この「高坂」または「香坂」姓は信濃国更級郡牧ノ島の香坂氏の家督を継承していることに由来する。香坂氏は武田領と反武田の北信濃国人・上杉謙信との境目に位置しつつ唯一武田側に属しており、虎綱が養子に入った背景にも香坂氏の川中島地域における政治・軍事的立場が考慮されたと考えられている。 |
| 高坂昌元 | |
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長兄の昌澄が天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで戦死したために世子となる。勝頼期には越後上杉氏の御館の乱において出兵し、虎綱は上杉景勝との外交取次を務めていたが、天正6年(1578年)に虎綱は死去し、昌元は家督・海津城代を継承して上杉方との外交を務め、甲越同盟の締結に至る。翌天正7年(1579年)3月までには海津城代が安倍宗貞に交代し、駿河国東端の三枚橋城の城代となり北条氏に対処する。 |