| NH03:海野広道 | 楢原久等耳 ― 滋野家訳 ― 海野広道 ― 会田幸持/岩下幸久 | NH07:会田幸持/岩下幸久 | ● |

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| 会田幸久 | 岩下幸久 |
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| 天文年間(1532~55年)の武田晴信による侵攻で、故地を逐われた会田幸久は、武蔵国越谷に転住し太田氏・北条氏に仕えた。北条氏滅亡後は会田一党は徳川氏の傘下となり、徳川家康の御殿建造の際は屋敷を提供したとされる。会田資久らは、徳川氏旗本として500石を領したという。天獄寺墓所に、この会田一門の墓が存在する。 |
鎌倉時代末期には、海野一党が会田郷を領地とした記録が存在するが、同時期に岩下氏が確立していたのか、岩下一族よりも先に会田郷に入った会田幸持流の一族との関連性があるのかは不明である。応永7年(1400年)に、信濃国人衆が小笠原長秀を放逐した大塔合戦を記す『大塔物語』によると、海野一族の寄騎として「海野幸義、会田岩下、田沢、塔原…」と記されており、室町時代には会田の地に岩下氏が入っていたようである。殿村の地に居館を構え、虚空蔵山城を要害とした。 |
| 岩下幸実 | |
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天文年間(1532~55年)における武田氏侵攻では、虚空蔵山城は自落したとされ、岩下氏(会田氏?)の一部は越後国・武蔵国へと逃れ、その一党の子孫が徳川家旗本の会田氏という。 |