<神皇系氏族>地祇系

MW05:大神惟基  大三輪大友主 ― 大神惟基 ― 由布有里 MW15:由布有里

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由布有里 由布家継
 由布氏は大神氏族稙田(ワサダ)氏の分流にあたる。油布氏と表記する場合もある。家名は豊後国速見郡由布郷を起源とする。戦国大名大友氏の家臣・戸次氏や柳河藩立花氏重臣を輩出する。

 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。戸次氏の家臣。『将士軍談』では「藤北立花両城大老一座」とされる。道雪七家老の第一座。
 由布院山城主・由布惟克(加賀守)の子として誕生。『将士軍談』によると、大永6年(1526年)馬嶽初陣とある。以降、従兄弟または叔父である立花道雪の下で活躍する。天正2年(1574年)に致仕したが、天正7年(1579年)6月以降、賀良山(嘉良山,唐山)西城の城番となる。この西城はのち大津留鎮正が城番となる。
 『将士軍談』によると、長男・惟重は別家召し出しで大友氏に仕えたため家督は惟明が継いだ。このためか『柳河藩享保八年藩士系図・上』では惟重は登場しない。

由布惟明 由布惟信

 戸次四天王の一人。『将士軍談』では兄・惟重がいたが、惟重は分家して大友氏に仕え、家督は惟明が継いだとする。父・由布家続は天正2年(1574年)に致仕。
 『将士軍談』によると、永禄7年(1564年)3月25日に豊前国柳浦合戦において16歳で初陣して以降、大小38の合戦に従軍し、14枚の感状をもらったという。また筑前国嘉良山城(唐山城)城代を勤め、宇美郷内75町を領するという。
 『将士軍談』によると、天正15年(1587年)に柳川において700石を与えられたが、同年に起こった和仁城攻めにおいて、城主の弟である和仁親範(弾正)に討ち取られて39歳で戦死する。一說には、同じ和仁城攻めの際、先鋒となって一番乗りの功を立てたが、耳が不自由なために家来の声が届かず、和仁方の中村治部少輔の弓矢により討ち死にした。のち当地の村人達は彼を丁重に葬り、彼の墓石を「耳の神様」として代々供養された。

 立花氏の家老で十時連貞,安東家忠,高野大膳らと並び立花四天王と称される。道雪七家老の第五座。立花氏時代の棚倉藩重臣。
 元々は大友氏の家臣で豊後国速見郡湯布院城主であったのだが、戸次鑑連に付き従う際に兄・碁晨に家督を譲り、残りの人生を立花氏のために尽くす。「天資英邁にして剛毅也」と伝わる、立花道雪の重臣として65回の合戦に参加し65ヶ所の傷を受け一番槍,一番乗り,一番首は数知れず、感状は70通ほど賜るなど武勇を誇った。家中に小野鎮幸と共に、立花道雪が孫子兵法の「奇正相生」を引用しての奇と正の両翼として立花双翼と称揚され、惟信は正の将を任じた。
 天正8年(1580年)4月27日、博多津東分役職を任され、秀でた政治手腕を発揮した。
 道雪の遺言で「戦場の地に甲冑着け埋葬せよ」との命に家臣共々が頭を抱えていた時に、殉死しようとする家臣を説得し丁重に埋葬した。道雪死後もその養子の立花宗茂を助け、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍についたため改易された主君の宗茂に随従して江戸に赴いた。慶長8年(1603年)、宗茂が将軍・徳川家康に見出されて棚倉藩1万石に封じられると、江戸で将軍に近侍する宗茂に代わって、子の惟次と共に藩内の行政を担当した。奥州赤館で歿した。享年86歳。生涯30数度の戦場で一度の負けもなかったという。

由布惟次

 元亀元年(1570年)、父や弟と共に立花道雪に従って筑前国に向かう。道雪の譜代家臣の一人として父と共に筑前各地を転戦する。
 天正9年(1575年)11月13日、 立花方は大友氏家臣・毛利鎮実の筑前鷹取山城を兵糧運輸する際、その帰路に宗像氏の家臣や杉氏・秋月氏方との小金原の戦いにて、得意の鉄砲を持って敵大将・河津修理進を狙い撃ち、首を得て戦功を挙げたが、この戦で刀や槍によって13ヶ所ものの深傷を受け、感状も受領した。その後、足が不自由となり、留守居役として内政奉行に勤めるが、慶長の役でも立花軍の三番隊367兵を率いて、般丹の戦いなどで活躍した。弟・惟紀は朝鮮派兵で戦死した。
 文禄5年(1596年)には父・惟信から家督と3,500石の俸禄を継承する。さらに慶長4年(1599年)に婿養子・立花惟与が由布氏の家督を継承する。関ヶ原の戦い後、立花家は改易となり一族と共に主君・宗茂に従い浪人となったが、慶長8年(1603年)、宗茂が将軍・徳川家康に見出されて陸奥国棚倉藩1万石に封じられると、江戸で将軍に近侍する宗茂に代わって、父の惟信と共に藩内の行政を担当した。
 のち元和6年(1620年)、立花家の柳河再封後も宿老の一人として、惟与と共に各類の文書や内政・外交事務を担当した。家督は婿養子で十時連貞の長子でもある惟与(のちに立花姓)が相続する。寛永10年(1633年)9月14日に75歳で病没した。
 なお、『将士軍談』では由布惟明(大炊介)の次男である由布三五兵衛西雲と父の惟信と混同されているが「柳河藩享保八年藩士系図・上」によれば別家である。