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戸次四天王の一人。『将士軍談』では兄・惟重がいたが、惟重は分家して大友氏に仕え、家督は惟明が継いだとする。父・由布家続は天正2年(1574年)に致仕。 『将士軍談』によると、永禄7年(1564年)3月25日に豊前国柳浦合戦において16歳で初陣して以降、大小38の合戦に従軍し、14枚の感状をもらったという。また筑前国嘉良山城(唐山城)城代を勤め、宇美郷内75町を領するという。 『将士軍談』によると、天正15年(1587年)に柳川において700石を与えられたが、同年に起こった和仁城攻めにおいて、城主の弟である和仁親範(弾正)に討ち取られて39歳で戦死する。一說には、同じ和仁城攻めの際、先鋒となって一番乗りの功を立てたが、耳が不自由なために家来の声が届かず、和仁方の中村治部少輔の弓矢により討ち死にした。のち当地の村人達は彼を丁重に葬り、彼の墓石を「耳の神様」として代々供養された。
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立花氏の家老で十時連貞,安東家忠,高野大膳らと並び立花四天王と称される。道雪七家老の第五座。立花氏時代の棚倉藩重臣。 元々は大友氏の家臣で豊後国速見郡湯布院城主であったのだが、戸次鑑連に付き従う際に兄・碁晨に家督を譲り、残りの人生を立花氏のために尽くす。「天資英邁にして剛毅也」と伝わる、立花道雪の重臣として65回の合戦に参加し65ヶ所の傷を受け一番槍,一番乗り,一番首は数知れず、感状は70通ほど賜るなど武勇を誇った。家中に小野鎮幸と共に、立花道雪が孫子兵法の「奇正相生」を引用しての奇と正の両翼として立花双翼と称揚され、惟信は正の将を任じた。 天正8年(1580年)4月27日、博多津東分役職を任され、秀でた政治手腕を発揮した。 道雪の遺言で「戦場の地に甲冑着け埋葬せよ」との命に家臣共々が頭を抱えていた時に、殉死しようとする家臣を説得し丁重に埋葬した。道雪死後もその養子の立花宗茂を助け、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍についたため改易された主君の宗茂に随従して江戸に赴いた。慶長8年(1603年)、宗茂が将軍・徳川家康に見出されて棚倉藩1万石に封じられると、江戸で将軍に近侍する宗茂に代わって、子の惟次と共に藩内の行政を担当した。奥州赤館で歿した。享年86歳。生涯30数度の戦場で一度の負けもなかったという。
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