<神皇系氏族>地祇系

MW05:大神惟基  大三輪大友主 ― 大神惟基 ― 高千穂政次 MW06:高千穂政次


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高千穂政次 高千穂政綱

 『高千穂古今治乱記』には、三田井氏の地神鸕鶿草葺不合尊からのの尊き血脈が絶えぬることを惜しみ、豊後国の大神大太惟基の一男を貰いうけ、嫡男となしたと記されている。しかし、『高千穂古今治乱記』は江戸時代後期に書かれたもので、その内容を鵜のみにすることはできない。
 三田井氏の祖という大神氏は『平家物語』によれば、大神氏の祖・大太惟基は高知尾明神の神子となっている。一方、『大神氏系図』や『大友興廃記』などには、祖母嶽大明神と堀河大納言伊周の女との間に生まれた神子となっている。しかし、これらの説は大神氏の始祖・惟基の所生を神秘化したものにほかならない。
 大神大太惟基には5人の男子(9人とする説もある)があり、長男が高千穂太郎政次、次男が阿南次郎惟季、3男が植田七郎、4男が大野八郎政基、5男が臼杵九郎惟盛で、それぞれ豊後を中心にして豊前・肥前・日向に子孫が繁衍していった。『高千穂古今治乱記』には太郎政次が高千穂に迎えられたことになっているが、嫡男の政次が高千穂に入ったのは、一説に高千穂は大神氏の侵略を受け、その支配下におかれたとするものもある。どういうかたちであれ、高千穂に入った太郎政次は高千穂一円を支配したものとみられる。そして、太郎が高千穂に入部したのは、平安時代中期の天慶年間から天暦年間(938~956年)のことと考えられている。 

 平家が滅び、源頼朝が権力を掌握すると、全国に守護・地頭が置かれることとなる。このとき、日向の守護職は佐々木高綱が任じられ、高千穂の地頭職は高千穂の伝統的豪族である高千穂氏が任じられた。
 13世紀のはじめ頃、高千穂の地頭・高千穂政綱が、高千穂神社の神領を熊野神社の灯明料として熊野宮に寄進したとの記録がある。この灯明料をめぐっては、孫の政重の代まで熊野社との争論が続いている。

高知尾政重 三田井親武

 建長6年(1254年)の鎌倉下知状の写しが高千穂神社に残されているが、そこには、「高知尾三郎政重、政重の祖父・政綱、父・政信」とあり、高知尾(高千穂)を名乗っていた。高千穂氏が三田井氏を称するようになったのは鎌倉時代後期のことであったと推定される。
 高千穂は十八ヶ村にまたがる広大な地域であり、高千穂氏はその支配者として高千穂を名字としていた。しかし、惣領制による相続によって河内・田原・岩戸・芝原・向山・桑野内などの諸氏が分出し、惣領高千穂氏の支配地域は三田井に限定されるようになった。三田井は高千穂の主邑であり、高千穂氏は一族の惣領としての誇りもあり、三田井を新たな名字として名乗るようになったと思われる。
 三田井氏は中山城を居城としたが、中山城は三田井村ではなく向山村にあった。しかし、向山を名乗ることはなく、三田井を名乗ったのは、高千穂氏の代々が三田井に居住していたことと、三田井が一族の惣領にふさわしい名字であったことを示しているといえる。 

 三田井氏は日向国高千穂の豪族で、高千穂氏の血筋が途絶えていたため親武は養子となっていた。
 天正18年(1587年)、豊臣秀吉は九州平定で諸公の封地を定めたが、この時、高橋元種に与えられた宛行状に高千穂が明記されていなかった(発令者のミスとされる)。このため、高千穂は落地になり、宙にうく存在となり、これが高橋氏と三田井氏との間で所領問題を生じる因となった。三田井氏にすれば、所領没収の命令もないまま、高千穂が高橋氏に与えられたことは納得がいかなかった。高橋氏にしても三田井氏が滅亡したり追放されたりして高千穂をもらったわけではなく、宛行状にも高千穂の文字はなく無理にその所有権を主張するわけにもいかなかった。『高千穂古今治乱記』によれば、上坂することになった高橋元種は三田井氏に「大坂への参勤の際に、良きに執り成す」といい、元種は秀吉に三田井氏を執り成すどころか「三田井に逆心を企て有り」と言上したため、秀吉は怒って三田井の処置は元種に任せると討手を申し付けた。
 こうして、三田井氏討伐の名分を得た高橋元種は、三田井氏を攻めることに決した。しかし、新領地であり無案内のため、三田井氏の筆頭重臣・甲斐宗摂に調略の手を伸ばし味方に引き入れた。天正19年9月、高橋勢は宗摂の案内で三田井本城に攻め寄せた。かくして、三田井親武は弟・親貞らとともに戦死、この合戦で三田井一族の主だった者はほとんど討死し、古代より高千穂の地に歴史を刻んできた三田井氏は滅亡した。生き残った三田井一族、旧臣らは高橋氏の支配下におかれ、三田井氏の遺児たちも命を助けられ高橋氏の支配に服した。同月29日、親武の首級は宮水にて実検された後、村民により宮水の地に埋葬される。
 後年、地元有力者により墓碑が建てられ、享和2年(1802年)に三田井氏の支族・興梠権兵衛重綱,中村忠兵衛,七折庄官甲斐又兵衛らが厚く法事を営んだとされる。明治初年に宮水神社として祀られる。

三田井鎮信
 戦死した親武のあとは鎮信が継いだが、すでに昔年の勢いはなく、しかも、鎮信は暗君で、弟・鎮氏が謀叛を企てているとの讒言を信じて水牢に閉じ込めたうえ殺害した。さらに、兄弟のなかで傑物とされて将来を嘱望された鎮武まで殺害してしまった。その後、鎮信は酒色に耽り、慶長3年(1598年)に病死した。ここに、三田井氏嫡流の血脈も断絶した。三田井氏滅亡の片棒をかついだ甲斐宗摂は、のちに高橋氏によって滅ぼされている。