鷹司松平家

F708:鷹司兼平  鷹司兼平 ― 松平信平 MT63:松平信平

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松平信平 松平信政

 寛永13年(1636年)、鷹司信房の子として生まれる。母は顕成王(白川顕成)の娘。鷹司家は五摂家の一つで公家社会では最高の家柄であったが、庶子である信平には門跡寺院に入るか、他の五摂家の養子になるなどの選択肢しかなかった。そこで15歳になった慶安3年(1650年)、江戸幕府第3代将軍・徳川家光の正室であった姉・孝子を頼って家臣1人だけを伴って江戸へと下った。家光はこれを歓迎して1,000俵の廩米と月俸200人扶持を与えられ寄合入りした。
 承応2年(1653年)、第4代将軍・徳川家綱の配慮により家光の叔父である紀州藩主・徳川頼宣の娘を娶り、翌承応3年(1654年)には従四位下左近衛少将に任じられ、徳川家の縁者として松平の名字を称することを許された。この年に従来の俸禄に代わって4,000俵の廩米を授けられる。
 明暦2年(1656年)、実父の見舞いのために上洛する。延宝2年(1674年)、姉・孝子が病死するも、家綱はこれを憐れんで廩米に替えて上野国・上総国に合わせて7,000石を与えた。
 元禄2年(1689年)7月28日、死去。享年54。
 公家から武家への転身という特殊な経歴から、「信平は実は徳川将軍家の血筋の人物なのではないか?」という憶測を生み出し、後世の松平長七郎伝説の土壌になったといわれている。

 江戸時代前期の旗本。父は鷹司松平家初代松平信平、母は紀州藩主徳川頼宣の娘・松姫。『寛政重修諸家譜』などによる諱は信正。
 寛文12年(1672年)閏6月9日、将軍・徳川家綱に拝謁する。延宝4年12月26日(1677年1月29日)、従四位下・侍従に叙任されて近江守を名乗る。後に左兵衛督に改める。元禄2年12月2日(1690年1月12日)、父の死により遺領7000石を継承する。将軍・徳川綱吉の御台所で鷹司家出身の鷹司信子から信任を受けた。父の死から2年後に後を追うように病死した。家督は長男の信清が相続した。
 曽祖父は徳川家康、祖父は関白・鷹司信房,紀州家祖・徳川頼宣。徳川3代将軍家光とは従兄弟違い、その御台所・鷹司孝子は叔母、さらには8代将軍・徳川吉宗とは従兄弟である。五摂家,徳川将軍家,御三家といった最高の格式を誇る家々の血筋を受け継いでおり、高家でもない一介の旗本でありながら国主並の官位官職に叙せられていた。

松平信清 松平信敬

 旗本・松平信政の長男。元禄4年12月5日(1692年1月22日)、7000石の家督を継ぐ。元禄12年(1699年)3月28日、将軍・徳川綱吉に拝謁する。元禄16年12月21日(1704年1月27日)、従四位下・侍従・越前守に叙任する。
 宝永6年(1709年)、多胡郡など3000石を加増されて合計1万石を領する大名となる。1万石の小大名でありながら、徳川将軍家御台所の縁者であり、鷹司家と紀州徳川家の血筋を引く家であることから、徳川家一門ならびに国主格の待遇を受けた。さらに江戸城内では御三家,加賀前田家と同格の大廊下(下之間)の格式を幕末まで受けることになる。享保9年(1724年)5月19日に36歳で死去し、跡を長男の信友が継いだ。

 藩財政再建のため、近江商人の松居久左衛門を登用し5500両を借財し、文政4年(1821年)には厳しい倹約令を出し、さらに役人を3ヶ年にわたって休職させることで給料を浮かせようとするなどの政策を採ったが、信敬自身が本国に帰国せずに江戸在府のまま藩政を行ったことから、かえって藩政の混乱を招き、改革は失敗に終わった。
松平信発 松平信謹

 文政7年(1824年)5月20日、松平維賢(松平斉孝の弟)の3男として美作津山城で生まれた。天保7年(1836年)から江戸に出て文武に励み、江戸時代後期の動乱が近づく中で諸外国の動向や藩政の事情などに精通し、聡明で知られたという。弘化4年(1847年)、上野吉井藩第8代藩主・松平信任が死去したため、その養子として家督を継いで第9代藩主となる。同年12月に従五位下左兵衛督に叙位・任官する。
 幕末期の名君の1人として実行力があり、水戸藩主・徳川斉昭や薩摩藩主・島津斉彬らと交遊している。嘉永6年(1853年)のペリー来航では江戸幕府に対して攘夷と国論統一を図るように進言した。安政4年(1857年)、幕府が日米修好通商条約を結ぼうとすると、不平等条約であることから断固反対している。安政6年(1859年)、安政の大獄により、徳川斉昭が蟄居される際にそれを伝える上使を務めたため、幕府から賞賛された。
 文久元年(1861年)に第14代将軍・徳川家茂との結婚により和宮が降嫁すると、和宮を憚って名を信和から信発と改名する。また、藩政では農民兵を採用した軍制改革を行っている。元治元年(1864年)7月21日、陣屋を吉井に移したため、正式に吉井藩となった。元治2年(1865年)3月26日、養子の松平信謹に家督を譲って隠居する。しかし、なおも藩政の実権は握り続け、信謹の補佐を務めた。慶応4年(1868年)2月22日、徳川氏との訣別を示すために姓を松平から吉井に改めている。なお、岩倉具視や三条実美ら新政府首脳陣から再出仕を請われたが、拒絶している。明治23年(1890年)9月2日、死去。享年67(満66歳没)。 

 嘉永6年(1853年)1月20日、出羽国米沢藩主・上杉斉憲の5男として生まれる。万延元年(1860年)5月20日、上野国吉井藩主・松平信発の養子となり、元治2年(1865年)3月26日に養父信発が隠居したため家督を相続する。
 慶応4年(1868年)2月22日、「松平」姓から「吉井」姓に改める。だが、その日に領内で大規模な世直し一揆が発生し、翌日には一揆勢に吉井宿が打ち壊されて吉井陣屋を包囲される直前で一揆勢の要求を全て受け入れて撤退させた。その後、新政府軍として戊辰戦争に参加した。明治2年(1869年)6月24日、吉井藩知事となった。同年12月辞職し、吉井藩は岩鼻県に合併、廃藩となった。明治12年(1879年)8月4日、隠居し長男・信宝に家督を譲った。ほどなく吉井家を離籍し上杉家に戻った。同年9月2日、上杉本家から分家し平民となる。
 明治23年(1890年)10月、38歳で死去。明治41年(1908年)11月22日に56歳で死去したとする説もある。