<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

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坂本直足 坂本直方

 寛政9年(1797年)、土佐郡潮江村の白札郷士であった山本家当主・山本信固の次男として生まれた。幼少期から槍に秀で、後年は免許皆伝の腕前を誇った。16歳を数えた頃、郷士坂本家の婿養子として入籍、坂本直澄の娘・坂本幸の夫となって、郷士坂本家の3代当主となった。ほどなく長男の直方が誕生した。このとき直足18歳といわれる。その後、龍馬に至るまで2男3女が誕生した。
 弓や槍などの武芸に優れていたといわれるが、書や和歌,学問にも精通し、「人となり純直、躯幹長大、弓・槍術をよくし、能書にて和歌に長ぜり」と評された。また、城下においても富を築き、「城下公方」と呼ばれるほどの経営手腕を見せた。龍馬に対しては、幼少期から厳しかったといわれ、幸の亡き後、気弱な龍馬に対して憂いたという。
 後年、龍馬が江戸に剣術留学のため出立する際には、忠孝を忘れることなく修行に励み、金銭を費やさない、色情に心を移し国家の大事を疎かにすることのないように、という意味からなる三箇条を詠った『修行中心得大意』を送った。 

 坂本直足の長男として生まれる。坂本龍馬の兄で、龍馬とは22歳の年齢差がある。安政2年(1856年)12月4日に父の直足が死去して坂本家当主となり、幼き頃の龍馬の父代わりとなった。龍馬の土佐藩脱藩には断固反対の立場を取っていたが、のちに理解を示し、資金援助という形で龍馬の志士活動を陰で支えた。しかし、国を奔走して暗殺された弟の龍馬の死後、龍馬の未亡人となり土佐に訪れた楢崎龍を引き取ったが、弟の遺留品と多額な財産が目当てであり、未亡人であるお龍を苛めては追い出すという仕打ちをしたため、それを知ったお龍は3ヶ月後で土佐にいられなくなって出ていった。妻とともに不仲な関係だったとされている。
坂本春猪 坂本清次郎

 文久3年(1863年)、土佐藩士鎌田実清の次男で父のはとこに当たる清次郎を婿に迎える。清次郎との間には元治元年(1864年)長女・鶴井、慶応元年(1865年)次女・兎美を産んでいる。その後、夫の清次郎が三好賜(後に清明)と改名するにあたって自身も三好登美と改名する。その後は三好家の長男・譲、長女・亀代をもうけた。夫の死後は、血縁上は従弟で鶴井の嫁ぎ先で義弟でもある坂本直寛を頼って札幌へ赴くも、後に高知へ帰り、亀代の嫁ぎ先である楠瀬済の家で晩年を過ごした。
 なお、叔父である坂本龍馬とは歳が8つしか離れていなかったためか、兄妹のように懇意な間柄であったという。

 

 本名は鎌田清次郎で、明治期に三好賜,三好清明と改名した。
 天保12年(1842年)、 土佐藩陪臣・鎌田実清と坂本幸の母・久の姉妹の井上好春の娘の2男として生まれる。
 文久3年(1863年)、12歳で幸の息子の土佐藩郷士・坂本権平の娘・坂本春猪と結婚して権平の養子となる。この頃、五十人組に参加した経歴がある。元治元年(1864年)に長女・鶴井、慶応元年(1865年)次女・兎美が産まれるが、慶応3年(1867年)に脱藩して叔父の坂本龍馬の海援隊に参加した。妻子を残して脱藩した清次郎に対しての龍馬の評価は手厳しく、龍馬の姉・乙女への手紙には「何も思惑のない人」と書いている。龍馬は坂本家に迷惑がおよばないよう、後藤象二郎に相談したり、土佐へ帰国するよう促すなどしている。
 明治3年(1870年)、土佐へ帰国するが、脱藩罪を問われ禁足にあう。赦免後、実家の兄・鎌田儀蔵が病死していたことから坂本家を離れ、鎌田家を継いた。以後、自由民権運動に参加したり、三好賜(後に清明)と改名したりする。また、その後はさらに長男・譲、坂本直寛の妻となる長女・亀代をもうける。鎌田家を継いだ後も娘婿の坂本直寛宅に同居していたが、明治23年(1890年)広島市へ移住し、その地で明治36年(1903年)に死去した。 

坂本直寛 坂本直行

 嘉永6年(1853年)、土佐国安芸郡安田村に高松順蔵・千鶴(龍馬の長姉)夫妻の次男として誕生。17歳の時、伯父・坂本権平の養嗣子となって「南海男」を名乗った。
 明治になると立志学舎において西洋の学問を修めたのち、自由民権運動に参加し、高知県会議員となる。『土陽雑誌』などで著述活動に励む一方、東京で「三大事件建白運動」に参加して保安条例違反で投獄されたこともある。
 明治11年(1878年)に高知で開催された立志社のキリスト教講演会をきっかけに、やがて洗礼を受け、キリスト教に入信する。 その後、立志社の高知県での活動は、政府を攻撃する政談演説会から、キリスト教演説会に切り替えられる。
 明治20年(1887年)、「南海男」から「直寛」に改名。この年、34歳で高知県会議員に当選する。1887年12月26日、明治政府への建白書を提出するために上京した坂本は、京橋の星亨邸で退去命令を拒否したために、片岡健吉,武市安哉と共に京橋警察署に保安条例違反で逮捕され、東京地方裁判所で軽禁固2年6か月の判決を受けて、石川島監獄に投獄される。1889年(明治22年)に大日本帝国憲法の発布にあたり大赦により石川島監獄から出獄し高知に帰る。
 国会議員をしていた武市安哉が石狩平野視察のきっかけに、1893年(明治26年)7月、国会議員を辞職して北海道開拓を始める。 明治30年(1897年)春には、北海道北見のクンネップ原野に一族を挙げて移住し、農場建設に参加することになり、高知市からの移民団の入植は3年で合計221戸になった。明治31年(1898年)の秋に、大雨により石狩川が氾濫し畑が大水害に襲われる。坂本は上京し大隈重信内閣の内務大臣であった板垣退助に救済を陳情し、救済金80万円が決定された。その結果、石狩川の治水事業が開始される。この時期、キリスト教系新聞「北辰日報」の主筆への誘いがあり一家で札幌に転出する。
 さらに明治35年(1902年)には、「聖園農場」の経営を義姉・留と甥・直衛に任せて、旭川の日本基督教会旭川教会に転出することになる。翌年には旭川2条通11丁目に新会堂を建設する。
 明治38年(1905年)、木材商社であるKing & Schulze商会釧路支店から独立し釧路で坂本商会設立。釧路から中国・北米に鉄道枕木を輸出するビジネスをはじめ、以後、釧路市を本拠地とする。 十勝監獄(現・帯広刑務所)の囚人の伝道、旭川師団歩兵第27連隊の軍人に対する伝道に尽力している。その後、札幌北一条教会の牧師になる。夕張炭鉱の労働者らが結成した大日本労働至誠会の会長も務めた。明治44年(1911年)9月6日夕方、札幌の病院で亡くなる。墓は札幌市中央区にある。 

 1906年、のちに郷士坂本家7代当主となる坂本弥太郎・直意夫妻の次男として現在の釧路市で出生。1911年に郷士坂本家5代当主の坂本直寛が死去、1913年、釧路大火で自宅家財を焼失し直寛の経営していた農場の施設の管理・処分のために、坂本家は1914年に札幌区に転居し、札幌二中(現・札幌西高)に通った。1924年、直行は父の勧めで北海道帝国大学(現・北海道大学)農学実科に進学。在学中は山岳部に在籍し、登山に親しんだ。1927年の北大卒業後は温室園芸を学ぶために東京府の温室会社に就職。その後、札幌で温室園芸会社を起業するが、父の資金援助がなかったこともあり頓挫する。
 1930年、北海道帝国大学の同窓とともに農場経営をするため、札幌の実家に帰らないまま十勝支庁の広尾郡広尾に転居し、同地の野崎牧場で働きながら牧場経営を学ぶ。1936年に25町歩の土地を取得し、自ら牧場を経営を始める。同年、石﨑ツルと結婚し、5男2女の7人の子どもを儲ける。また、この時期、北大山岳部OBとしてペテガリ岳登頂計画に参加したほか、北海道の自然をモチーフとした風景画や植物画を書き始める。1957年、第一回個展を札幌市で開き、その成功を受け、1959年には東京で個展を開催。以降は画業に専念することになる。1960年より札幌市にアトリエを構え、画題を求めてヒマラヤやカナダなどを旅行し始める。1974年、北海道文化賞受賞。1982年、膵臓癌のため、札幌市で死去。 

坂本乙女 坂本龍馬

 父親の影響で、薙刀に長け、剣術・馬術・弓術・水泳などの武芸や、琴・三味線・舞踊・謡曲・経書・和歌などの文芸にも長けた、文武両道の人物だったという。身長5尺8寸(約175cm)・体重30貫(約112kg)という、当時としても現代にしても大変に大柄な女性であった。
 弘化3年(1846年)に母・幸が死去すると龍馬の母親代わりを務め、書道・和歌・剣術などを教え、また彼が当時患っていた夜尿症を治したこともあった。乙女は当時にしてはかなり男勝りな性格で、体も大きかったため龍馬に常に勝っており、龍馬が負けて悔しがって泣いても高笑いし「それでも男か!」と言ったり、龍馬が大好きだった「足相撲」は負け知らずであり、強い脚力で龍馬を負かしていた。当時は女性は下着を着用していなかったため、白熱して下半身が丸出しになっても乙女は龍馬が負けるまで辞めないため、他の兄弟や父親が止めるまで龍馬をコテンパンにしていた。
 当時は、背が低く、色白でややぽっちゃりしているしおらしい女性が美人とされており、正反対である乙女を龍馬以外の家族や身内は「将来貰い手がいないのではないか?」と心配していた。安政3年(1856年)、典医・岡上樹庵と結婚して一男一女(赦太郎,菊栄)をもうけるが、家風の相違や夫の暴力・浮気などが原因で慶応3年(1867年)に離婚し、実家に戻る。龍馬のよき理解者として、相談に乗ったり励ましたりしたという。龍馬は手紙を書くことを好んでおり、あらゆる人に当時はかなり高価である手紙を出していたが、一番多かったのは乙女への手紙であった。手紙の内容はたわいないものであり、乙女に立派に勉強していることを自慢する内容や、好きになった女性や結婚相手の相談まで乙女に書いていた。龍馬の妻お龍とは不仲で、結婚も反対していた。「龍馬暗殺後、坂本家に身を寄せたお龍が程なく同家を去り各地を放浪した」とされているが、近年の史料では「乙女はお龍に対し親身に接していた」[ことが明らかにされている。
 晩年は独と改名し、養子の坂本直寛(のち北海道北見市の開拓に従事)と共に暮らす。1879年(明治12年)、壊血病に罹り死去した。享年48(満47歳)。当時、コレラの感染を恐れて野菜を食べなかったことが原因といわれる。墓所は高知市山手町の坂本家墓所。 

 土佐藩郷士の家に生まれ、幼少時は泣き虫で弱虫のひ弱な少年であった。実母を10歳の時に病気で亡くす。以後、姉の乙女が母代わりに龍馬を教育する。脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(のちの海援隊)を結成した。薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与した。大政奉還成立後の慶応3年11月15日(1867年12月10日)に京都河原町の近江屋において暗殺された。実行犯については今井信郎による自供から、京都見廻組によるものという説が有力であるが、異説もある。また、暗殺の直前11月上旬には『新政府綱領八策』を起草し、新政府の中心人物の名は故意に「○○○自ら盟主と為り」と空欄にしてあった。龍馬が誰を意図していたのかはさまざまな説がある。

 

~詳細はWikipedia(坂本龍馬)参照~

坂本 直 坂本直道

 天保13年(1842年)、土佐藩の郷士である父・高松順蔵と母・千鶴(龍馬の姉)の長男として生まれる。
 19歳の時、九州に剣術修行の旅に出る。旅先で武市半平太に出会ったことをきっかけに土佐勤王党に加盟して尊皇攘夷運動に身を投じるが、のちに叔父・龍馬の紹介によって幕臣・勝海舟の弟子となる。神戸海軍操練所で航海術を習うが、八月十八日の政変の影響で土佐勤王党が弾圧されると、文久3年(1863年)に脱藩。その後、一時は薩摩藩に匿われるが、龍馬や陸奥宗光らと長崎で亀山社中(後の海援隊)を結成。長州藩船ユニオン号を購入するなど活躍する。
 王政復古後、函舘裁判所権判事として函館に赴任するが、旧幕府軍が函館に侵攻してくると清水谷公考総督らとともに青森に撤退した。維新後は宮内省に出仕するが早々に退職した。
 その後の明治4年(1871年)8月、龍馬の家督を相続して朝廷から永世十五人扶持を給せられ、名を坂本直と改める。以後、東京府典事,宮内省雑掌,舎人などを歴任するも、キリスト教信奉を理由に宮内省を免職になる。キリスト教に帰依した後は高知教会(現・日本基督教団高知教会)の熱心な信者になり、同じくクリスチャンとなった龍馬の暗殺犯とされる今井信郎を龍馬の法要に招いたりもしている。晩年は弟・直寛宅に同居した。明治31年(1898年)、病気のため57歳で死去した。 

 高知県生まれ。1897年、父・直寛(郷士坂本家5代当主)ら一族で北海道訓子府に移住する。1906年釧路で北米・中国に鉄道枕木を輸出する目的で坂本商会を設立本拠地は釧路市となる。1911年に父が亡くなり、いったん郷士坂本家を相続する(郷士坂本家6代当主)が、1913年に直道が隠居する形で、郷士坂本家は義兄の彌太郎(郷士坂本家7代当主)が家督を継ぐこととなる。
 1920年(大正9年)に東京帝国大学法学部を卒業して南満州鉄道に就職。1929年(昭和4年)からはフランスのパリに駐在となり、以後1940年(昭和15年)6月に帰国するまで11年間居住した。この間、1933年(昭和8年)には、満鉄出身の松岡洋右が全権を務めた国際連盟総会(日本がリットン報告書の認定を拒否して連盟を脱退した)の随員に加わっている。随員に加わる前、直道は日本が国際的に孤立することを危惧し、国際連盟内で日本に同調しなくとも同情的な態度を取る(制裁決議に対して否決もしくは棄権)国を増やすことや、日仏友好議員連盟のようなものを組織しようといった進言を松岡におこなっている。直道はパリで満鉄欧州事務所長を務める傍ら、日仏同志会の理事職や雑誌『日仏文化(フランス・ジャポン)』の発刊などの交流事業にも関与した。この『日仏文化(フランス・ジャポン)』は、松岡の要請で日本の対外宣伝を目的として刊行されたものだった。直道は、国際連盟総会でジュネーブ滞在中に親交を深めたと思われる読売新聞パリ特派員の松尾邦之助を編集長に招いている。
 帰国した1941年に、彌太郎の薦めで坂本龍馬家の家督を継いでいる。帰国後は日米関係の改善を目的とした活動をおこなったが、官憲から監視を受ける立場となり、満鉄参与を辞職。長野県軽井沢町に隠棲し、同じく隠棲中だった鳩山一郎と隣家だったことから、戦後の日本について話し合う間柄になった。終戦後、鳩山が日本自由党を結成した際には顧問に選ばれるが、短期間で辞している。以後は日仏経済懇話会理事長,電波監理委員会委員等を歴任。
 1972年、80歳で病没。