KI67:坂本小根 | 紀 角 ― 坂本小根 ― 坂本盛直 | KI68:坂本盛直 | ● |
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坂本直足 | 坂本直方 |
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寛政9年(1797年)、土佐郡潮江村の白札郷士であった山本家当主・山本信固の次男として生まれた。幼少期から槍に秀で、後年は免許皆伝の腕前を誇った。16歳を数えた頃、郷士坂本家の婿養子として入籍、坂本直澄の娘・坂本幸の夫となって、郷士坂本家の3代当主となった。ほどなく長男の直方が誕生した。このとき直足18歳といわれる。その後、龍馬に至るまで2男3女が誕生した。 |
坂本直足の長男として生まれる。坂本龍馬の兄で、龍馬とは22歳の年齢差がある。安政2年(1856年)12月4日に父の直足が死去して坂本家当主となり、幼き頃の龍馬の父代わりとなった。龍馬の土佐藩脱藩には断固反対の立場を取っていたが、のちに理解を示し、資金援助という形で龍馬の志士活動を陰で支えた。しかし、国を奔走して暗殺された弟の龍馬の死後、龍馬の未亡人となり土佐に訪れた楢崎龍を引き取ったが、弟の遺留品と多額な財産が目当てであり、未亡人であるお龍を苛めては追い出すという仕打ちをしたため、それを知ったお龍は3ヶ月後で土佐にいられなくなって出ていった。妻とともに不仲な関係だったとされている。 |
坂本春猪 | 坂本清次郎 |
文久3年(1863年)、土佐藩士鎌田実清の次男で父のはとこに当たる清次郎を婿に迎える。清次郎との間には元治元年(1864年)長女・鶴井、慶応元年(1865年)次女・兎美を産んでいる。その後、夫の清次郎が三好賜(後に清明)と改名するにあたって自身も三好登美と改名する。その後は三好家の長男・譲、長女・亀代をもうけた。夫の死後は、血縁上は従弟で鶴井の嫁ぎ先で義弟でもある坂本直寛を頼って札幌へ赴くも、後に高知へ帰り、亀代の嫁ぎ先である楠瀬済の家で晩年を過ごした。
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本名は鎌田清次郎で、明治期に三好賜,三好清明と改名した。 |
坂本直寛 | 坂本直行 |
嘉永6年(1853年)、土佐国安芸郡安田村に高松順蔵・千鶴(龍馬の長姉)夫妻の次男として誕生。17歳の時、伯父・坂本権平の養嗣子となって「南海男」を名乗った。 |
1906年、のちに郷士坂本家7代当主となる坂本弥太郎・直意夫妻の次男として現在の釧路市で出生。1911年に郷士坂本家5代当主の坂本直寛が死去、1913年、釧路大火で自宅家財を焼失し直寛の経営していた農場の施設の管理・処分のために、坂本家は1914年に札幌区に転居し、札幌二中(現・札幌西高)に通った。1924年、直行は父の勧めで北海道帝国大学(現・北海道大学)農学実科に進学。在学中は山岳部に在籍し、登山に親しんだ。1927年の北大卒業後は温室園芸を学ぶために東京府の温室会社に就職。その後、札幌で温室園芸会社を起業するが、父の資金援助がなかったこともあり頓挫する。 |
坂本乙女 | 坂本龍馬 |
父親の影響で、薙刀に長け、剣術・馬術・弓術・水泳などの武芸や、琴・三味線・舞踊・謡曲・経書・和歌などの文芸にも長けた、文武両道の人物だったという。身長5尺8寸(約175cm)・体重30貫(約112kg)という、当時としても現代にしても大変に大柄な女性であった。 |
土佐藩郷士の家に生まれ、幼少時は泣き虫で弱虫のひ弱な少年であった。実母を10歳の時に病気で亡くす。以後、姉の乙女が母代わりに龍馬を教育する。脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(のちの海援隊)を結成した。薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与した。大政奉還成立後の慶応3年11月15日(1867年12月10日)に京都河原町の近江屋において暗殺された。実行犯については今井信郎による自供から、京都見廻組によるものという説が有力であるが、異説もある。また、暗殺の直前11月上旬には『新政府綱領八策』を起草し、新政府の中心人物の名は故意に「○○○自ら盟主と為り」と空欄にしてあった。龍馬が誰を意図していたのかはさまざまな説がある。
~詳細はWikipedia(坂本龍馬)参照~ |
坂本 直 | 坂本直道 |
天保13年(1842年)、土佐藩の郷士である父・高松順蔵と母・千鶴(龍馬の姉)の長男として生まれる。 |
高知県生まれ。1897年、父・直寛(郷士坂本家5代当主)ら一族で北海道訓子府に移住する。1906年釧路で北米・中国に鉄道枕木を輸出する目的で坂本商会を設立本拠地は釧路市となる。1911年に父が亡くなり、いったん郷士坂本家を相続する(郷士坂本家6代当主)が、1913年に直道が隠居する形で、郷士坂本家は義兄の彌太郎(郷士坂本家7代当主)が家督を継ぐこととなる。 |