<継体朝>

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後花園天皇 後土御門天皇

 正長元年(1428年)に称光天皇が危篤に陥ると、両統迭立を要求する後南朝勢力がにわかに活動の気配を見せたため、室町幕府将軍に就任することになっていた足利義宣(後の義教)は、伏見御所にいた彦仁王(後花園天皇)を保護し、後小松上皇に新帝指名を求めた。同年7月20日に称光天皇が崩御すると、彦仁王は後小松上皇の猶子となって親王宣下のないまま7月28日に践祚し、翌永享元年(1429年)12月27日に即位した。天皇の即位は、崇光天皇以来、皇統の正嫡に帰ることを念願していた伏見宮家にとってはめでたいことであり、父・貞成親王もこれを「神慮」として喜んだ。
 即位して以降も後小松上皇による院政は継続されたが、永享5年(1433年)10月に上皇が崩御した後は30年余り親政を行った。この間、各地で土一揆が起こり、永享の乱,嘉吉の乱などでは治罰綸旨を発給するなどの政治的役割も担って朝廷権威の高揚を図った。同11年(1439年)6月に勅撰和歌集(二十一代集)の最後に当たる『新続古今和歌集』が成立。
 嘉吉3年(1443年)9月には後南朝勢力が土御門内裏に夜襲をかけ、後花園天皇は近衛忠嗣邸に逃れるが、三種の神器の一部を奪われた(禁闕の変)。奪われた神器のうち、剣は清水寺で発見されるが、神璽(曲玉)は持ち去られた。文安元年(1444年)2月に同母弟の貞常王に親王宣下を行い、同4年(1447年)11月、父・貞成親王に太上天皇の尊号を奉っている。享徳4年(1455年)1月、後二条天皇の5世孫にあたる木寺宮邦康王に親王宣下を行った。長禄元年(1457年)12月、嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮を襲って神璽を奪還し(長禄の変)、翌年8月には全ての神器が天皇の手中に帰することになる。寛正2年(1461年)4月、亀山天皇の5世孫にあたる常盤井宮全明王に親王宣下を行った。同3年(1462年)10月、皇子の成仁親王に天皇としての心得を説いた『後花園院御消息』を与えている。同5年(1464年)7月19日成仁親王(後土御門天皇)へ譲位して上皇となり、左大臣・足利義政を院執事として院政を敷いた。応仁元年(1467年)に応仁の乱が勃発した際、東軍・細川勝元から西軍治罰の綸旨の発給を要請されたが、上記とは異なり上皇はこれを拒否。兵火を避けて天皇とともに室町第へ移るも、自らの不徳を悟って同年9月20日に出家、法名を円満智と号した。
 文明2年(1470年)12月27日、中風のため室町第で崩御した。享年52。翌3年(1471年)1月2日、高辻継長の勘申によって後文徳院と追号されたが、漢風諡号(文徳天皇)に「後」字を加えた追号(加後号)は先例がないとする太閤・一条兼良の意見があり、諸卿からの意見も勘案した上で、2月19日に後花園院と改められた。
 詩歌管弦に堪能で、『新続古今集』に12首、『新撰菟玖波集』に11句が入集したほか御集がある。闘鶏・猿楽・松はやしなどを好み、また学問にも秀でた。寛正2年(1461年)春、長禄・寛正の飢饉の最中に奢侈に明け暮れる将軍足利義政に対して、漢詩を以って諷諫したというエピソードは著名である。 

 長禄元年(1457年)12月19日に親王宣下、寛正5年(1464年)7月19日に後花園天皇の譲位を受けて践祚(即位日は、寛正6年(1465年)12月27日)。文明2年(1470年)まで後花園上皇による院政が行われた。
 践祚後ほどなく応仁の乱が起き、寺社や公卿の館は焼け、朝廷の財源は枯渇して朝廷は衰微した。乱を避けるため、足利義政の室町第に10年の間避難生活を強いられた。避難生活中には、義政正室の日野富子に仕える上臈の花山院兼子と密通して皇女を出産している。屋敷内での密通は本来であれば室町第の主人である義政や兼子の主人である富子によって厳罰に処せられる行為であったが、その当事者の身分ゆえに天皇,兼子ともに不問にされている。また、その富子との密通も噂されていた。乱の終結後、朝廷の古来の儀式の復活に熱意を注ぐが、思うように行かなかった。
 明応の政変に憤慨して一時は譲位を決意するが、老臣である権大納言・甘露寺親長の諫奏によって取りやめる。その背景には、朝廷に譲位の儀式のため費用がなく、政変を起こした細川政元にその費用を借りるという自己矛盾に陥る事態を危惧したとも言われている。
 後土御門天皇は5回も譲位しようとしたが、政権の正統性を付与するよう望んでいた足利将軍家に拒否された。
 明応9年(1500年)9月28日、崩御。享年58。葬儀の費用もなく、40日も御所に遺体がおかれたままだった。一方で、平安時代に後一条天皇の崩御を隠して後朱雀天皇への譲位を行って以来、在位中の天皇の崩御は禁忌となったため、10月に後柏原天皇への「譲位」による践祚を行った後に「旧主(上皇)」としての葬儀を行ったとする解釈もある。また、江戸時代に書かれた『続本朝通鑑』には「霊柩在黒戸四十日余、玉体腐損、而蟲湧出、古来未曾有焉」と記されているが、同書以外にそのことを記した記録はない。なお、後土御門天皇の葬儀に関しては東坊城和長が詳細な記録を残しているが、天皇の遺体の状態については記されていない。

後柏原天皇 後奈良天皇

 文明12年(1480年)12月13日に親王宣下。明応9年(1500年)10月25日、後土御門天皇の崩御を受けて践祚した。しかしながら、応仁の乱後の混乱のために朝廷の財政は逼迫しており、後柏原天皇の治世は26年におよんだが、即位の礼をあげるまで21年待たなくてはならなかった。
 また、11代将軍・足利義澄が参議中将昇任のために朝廷に献金して天皇の即位の礼の費用にあてることを検討したが、管領・細川政元が「即位礼を挙げたところで実質が伴っていなければ王と認められない。儀式を挙げなくても私は王と認める。末代の今、大がかりな即位礼など無駄なことだ」と反対し、群臣も同意したため献金は沙汰止みとなるなど、主要な献金元である幕府や守護大名も逼迫していたために資金はなかなか集まらなかった。費用調達のために朝廷の儀式を中止するなど経費節約をし、室町幕府や本願寺9世・実如の献金をあわせることで、即位22年目の大永元年(1521年)3月22日にようやく即位の礼を執り行うことができた。ただし、この時も直前に将軍・足利義稙(10代将軍の再任)が管領・細川高国と対立して京都から出奔して開催が危ぶまれた。だが、義稙の出奔に激怒した天皇は即位の礼を強行して、警固の責任を果たした細川高国による義稙放逐と足利義晴擁立に同意を与えることとなった。
 応仁の乱により、公卿は地方に離散し、朝廷の財政は窮乏し、天皇の権威も地に落ちた時代だった。財政難で廃絶した朝廷の儀式の復興に力を入れる反面、戦乱や疾病に苦しむ民を思い続けた。仏教に帰依し、大永5年(1525年)の疱瘡大流行時には自ら筆をとって「般若心経」を延暦寺と仁和寺に奉納した。詩歌管弦・書道に長けていたという。大永6年(1526年)4月7日、崩御。 

 明応5年(1497年)1月26日、権中納言・勧修寺政顕の屋敷で誕生。大永6年(1526年)4月29日、後柏原天皇の崩御にともない践祚した。しかし、朝廷の財政は窮乏を極め、全国から寄付金を募り、10年後の天文5年2月26日(1535年3月29日)にようやく紫宸殿にて即位式を行うことができた。寄付した戦国大名は後北条氏,大内氏,今川氏などである。
 後奈良天皇は、宸筆(天子の直筆)の書を売って収入の足しにしていた。だが、清廉な人柄であったらしく、天文4年(1535年)に一条房冬を左近衛大将に任命した際に秘かに朝廷に銭1万疋の献金を約束していたことを知って、献金を突き返した。さらに、同じ年に即位式の献金を行った大内義隆が大宰大弐への任官を申請したが、これを拒絶した。大内義隆の大宰大弐任命は、周囲の説得で翌年にようやく認めた。
 慈悲深く、天文9年(1540年)6月、疾病終息を発願して自ら書いた『般若心経』の奥書には「今茲天下大疾万民多阽於死亡。朕為民父母徳不能覆、甚自痛焉」との悲痛な自省の言を添えている。また、天文14年(1545年)8月の伊勢神宮への宣命には皇室と民の復興を祈願するなど、天皇としての責任感も強かった。
 三条西実隆,吉田兼右らに古典を、清原宣賢から漢籍を学ぶなど学問の造詣も深かった。御製の和歌も多く、『後奈良院御集』『後奈良院御百首』などの和歌集、日記『天聴集』を残している。さらに、なぞなぞ集『後奈良天皇御撰名曾』は、貴重な文学資料でもある。

正親町天皇 誠仁親王

 弘治3年(1557年)、後奈良天皇の崩御に伴って践祚した。当時、天皇や公家達はすでに貧窮していた。戦国大名・毛利元就の献上金があるまで、3年間即位の礼を挙げられなかった。正親町天皇は、元就に褒美として従五位下・右馬頭という位階を授け、皇室の紋章である菊と桐の模様を毛利家の家紋に付け足すことを許可した。さらに、本願寺法主・顕如も莫大な献金を行っており、天皇から門跡の称号を与えられた。これ以後、本願寺の権勢が増す。永禄8年(1565年)には、キリスト教宣教師の京都追放を命じた。
 朝廷の財政は逼迫し、権威も地に落ちかけていた。永禄11年(1568年)、織田信長は、正親町天皇をお護りするという大義名分により、京都を制圧した。 この上洛によって、皇室の危機的状況に変化が訪れていた。信長は、逼迫していた朝廷の財政を様々な政策や自身の援助により回復させた。一方で、天皇の権威を利用し、信長の敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現させた。元亀元年(1570年)の朝倉義景,浅井長政との戦い、天正元年(1573年)の足利義昭との戦い、天正8年(1580年)の石山本願寺との戦いにおける講和は、いずれも正親町天皇の勅命によるものである(ただし、本願寺との和議は本願寺側からの依頼という説もある)。その間の天正2年(1574年)には、信長に蘭奢待の切り取りを許可し、天正5年(1577年)には信長の最高位となる右大臣を宣下した。イエズス会の宣教師は、日本には正親町天皇と織田信長の2人の統治者がいると報告書に記述した。
 豊臣氏へ政権が移った後も、豊臣秀吉は御料地や黄金を献上し、正親町天皇を政権の後ろ楯とした。当時、秀吉は中国・朝鮮や東南アジアへの進出という壮大な野望を抱いていた(文禄の役)。明を征服した暁には「叡慮」を明に移し、その後の「日本帝位の儀」をはじめとした朝廷人事についても構想していたとされる。この計画は朝鮮出兵での失敗によって頓挫したものの、その後も皇室と織豊政権の相互関係は続き、結果的に皇室の権威は高まった。
 天正14年(1586年)、孫の和仁親王(後陽成天皇)に譲位して仙洞御所に隠退した。文禄2年(1593年)1月5日に崩御した。
 正親町天皇は天正元年(1573年)頃から信長にその存在を疎まれるようになる。そして、たびたび譲位を要求されるようになる。同年12月8日の『孝親日記』にその事が記されている。また、2年後には譲位後に居住する仙洞御所の予定地を探していたともされた。信長としては、儲君の誠仁親王を早く天皇にすることで、より朝廷の権威を利用しやすいものにしようという思惑があったようである。しかし、天皇はそれを最後まで拒んだ。ちなみに本能寺の変に関する一説として朝廷関与説が浮上するのも、このような事情によるものである。
 一方、逆に正親町天皇が譲位を希望したが、信長がこれに反対していたという説もある。当時仙洞御所が存在しておらず、天皇・信長のどちらかが譲位を希望したとしても、「退位後の生活場所」という現実的な問題があった。譲位に関する諸儀式や退位後の上皇の御所の造営などにかかる莫大な経費を捻出できる唯一の権力者である信長が、譲位に同意しなかったからとするのが妥当とされている(戦国時代に在位した3代の天皇が全て譲位をすることなく崩御しているのは、譲位のための費用が朝廷になかったからである)。
 天正元年の時点で、正親町天皇は57歳(同9年には65歳)、誠仁親王は22歳(同30歳)である。天正9年の時点では、天皇の病気の記事が頻出するようになる。つまり、譲位を行う好機であった。にもかかわらず、信長が譲位に関して積極的な行動を取らなかったのは、上記の理由が考えられる。

 永禄11年(1568年)12月15日、親王宣下を受け元服。資金難のため延び延びになっていたが、織田信長が費用を負担してようやく実現したものである。別当には菊亭晴季が、家司には甘露寺経元,庭田重通,山科言経,中山親綱,烏丸光宣が任じられている。正式な立太子礼は行われなかったものの、正親町天皇には誠仁以外の男子が生まれなかったため、同時代の史料には彼を指して、「春宮」・「東宮」・「太子」と呼ぶ例も見られた。
 元服に先立つ永禄10年(1567年)11月には勧修寺晴子を上臈とする。名目は女房であったが、実質的には妃であり、彼女との間に13人の子を儲けている。若い頃から和歌や笙に優れ、特に和歌に関しては晩年まで度々歌会を開いている。
 天正年間に入ると、絹衣相論,興福寺別当相論など朝廷に持ち込まれた訴訟に深く関与するようになり、特に後者において信長が天皇に意見を無視されて憤りを感じていることを知ると、直ちに天皇の代わりに謝罪の書状を送っている。また、石山合戦における信長と顕如の講和の仲介者として度々登場しており、天正8年(1580年)の勅命講和による最終的な解決の際にも顕如に石山本願寺からの退去を説得する書状を送っている。
 天正7年(1579年)11月以降、誠仁親王は織田信長が献上した二条新御所と呼ばれた邸宅に居を構えた。これはもとは二条家の邸宅であり、信長が気に入って二条家から譲り受けて大改造を施し、自らの居館とした建物であった。二条新御所は、正親町天皇が居住する「上御所」に対して「下御所」と呼ばれ、正親町天皇も朝廷の意志決定に際しては、必ず誠仁親王に意見を求めるようになる。事実上の天皇(共同統治者)とみなされていたことがうかがえる。
 正親町天皇はすでに当時としては高齢であり、誠仁親王もいつ即位してもおかしくない年齢であった。しかし、朝廷が譲位にともなう一連の儀式を自力で挙行することは経済的に不可能であり、また先々代の後柏原天皇,先代の後奈良天皇、そして正親町天皇自身の3人の天皇のように、全国の戦国大名から広く寄付を募るという手法も信長の覇権の下ではもはや使えなかった。朝廷は、譲位の実現をひたすら信長に働きかけざるを得ず、左大臣推任・三職推任など、朝廷としては破格の交換条件を提示して信長を動かそうとしたが、信長は明示的に拒絶することはなかったものの、その死に至るまで消極的な態度に終始した。ただし、安土城には天皇の行幸を迎える「御幸の間」が設置されており、これは誠仁親王の即位を想定したものと推測されている。
 本能寺の変の際、信長の嫡男の信忠は宿所としていた妙覚寺を放棄し、より軍事施設として優れていた二条新御所に立て籠もった。『イエズス会日本年報』によれば、明智光秀の軍勢が御所を包囲するなか、誠仁親王は光秀に「自分も腹を切るべきか」と尋ねたという。自分が信長に擁立され、信長に依存した存在であり、信長が倒されればそれに殉じることもありうる立場であると誠仁は考えていたのである。幸い、信忠に同行していた村井貞勝の交渉により、誠仁親王とその妻子・宿直の公家たちは御所を脱出し禁裏に逃げ込んだ。誠仁親王一行にまぎれこんだ逃亡者が出ることを警戒した光秀は、馬や乗り物の使用を禁じたため、誠仁親王は徒歩で移動しなければならなかった。同行していた連歌師・里村紹巴がどこからか粗末な荷運び用の輿を調達したので、誠仁親王だけは途中からそれに乗ったという。
 天正12年(1584年)1月、三品に叙せられている。信長の後継者となった豊臣秀吉は、譲位して上皇となる正親町天皇のための「院御所」の建設に着手するなど、譲位に積極的に取り組む姿勢を見せたが、誠仁親王は譲位を待たずに、天正14年(1586年)7月24日に薨去してしまった。あまりの突然の死は社会に大きな衝撃を与えたという。誠仁の薨去後、遺児の和仁親王(後陽成天皇)が同年11月に祖父の猶子とされて皇位を譲られた。時期は不明であるが、後陽成は早世した父に「陽光院」と諡し、太上天皇の尊号を贈った。