<継体朝>

K312:桓武天皇  継体天皇 ― 欽明天皇 ― 敏達天皇 ― 押坂彦人大兄皇子 ― 天智天皇 ― 桓武天皇 ― 仲野親王 K315:仲野親王


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仲野親王 平 房世

 延暦24年(805年)8月、安芸国賀茂郡地50町を、12月、河内国交野郡白田2町を賜る。弘仁5年(814年)正月、無品から四品に初叙。淳和朝では上総太守,中務卿,大宰帥を経て、天長10年(833年)正月に三品に進む。仁明朝に入ると、上総太守,弾正尹,上野太守を歴任し、承和14年(847年)正月に二品に昇叙した。嘉祥3年(850年)5月式部卿に任じられ、仁寿3年(853年)常陸太守、貞観3年(861年)正月上総太守、同5年(863年)2月大宰帥を兼任。晩年、輦車による宮中の出入りの他、禁野外での遊猟やそのための鷹と鶴の飼養が許された。貞観9年(867年)正月17日薨去、享年76。
 山城国葛野郡の「高畠墓」に葬られた。薨後20年を経た仁和3年(887年)、光孝天皇の女御であった娘・班子女王所生の定省親王が即位(宇多天皇)したことにより、閏11月15日その外祖父として一品太政大臣が追贈されている。
 幼い頃からわきまえがあって賢く、心が広くゆったりした性格であった。寿詞と宣命を宣読することに優れ、その音儀詞語は模範とされたが、当時の皇族でその作法に通じていることは非常に珍しいことであった。これは左大臣・藤原緒嗣より伝えられたもので、のちに清和天皇の命により、当時、参議であった藤原基経や大江音人らが仲野親王の住む六条第に赴いて、その音詞曲折を学んだという。

 承和13年(846年)無位から従四位下に直叙され、治部大輔に任ぜられる。承和15年(848年)宮内大輔に転じて、仁明朝末から文徳朝にかけてこれを務めた。
 文徳朝末の天安2年(858年)武蔵権守次いで越中権守に転じると、貞観3年(861年)越前権守と清和朝初頭まで地方官を務める。貞観4年(862年)従四位上に叙せられるが、まもなく散位となる。貞観5年(863年)、平朝臣姓の賜与を上奏し許されて臣籍降下する。貞観6年(864年)弾正大弼に任ぜられて一時的に京官に復するが、翌貞観7年(865年)に河内権守として再び地方官に転じると、その後河内守・摂津守・因幡守と清和朝後半から陽成朝にかけて地方官を務めた。元慶7年(883年)8月21日卒去。

当世王 潔世王
 仁寿3年(853年)無位から従四位下に直叙される。斉衡2年(855年)8月13日卒去。生まれつき身体が弱く、風雨を非常に忌み嫌い、鷹狩りに用いる犬を好んだにも関わらず、敢えて戸外に出て野山に遊ぶことがなかったという。

 幼い頃から歴史や伝記を学び、文章生に補せられる。しかし、長く対策に及第できず文章生のまま、貞観2年(860年)41歳にして従四位下に直叙された。
 しばらく散位であったが、貞観5年(863年)大学頭に任ぜられる。大学頭在任中、貞観8年(866年)の高山祭使や、貞観10年(868年)の文徳天皇田邑陵で発生した野火に伴う陵への使いなど臨時の使者を務めている。その後、従四位上・民部大輔に叙任された後、貞観17年(875年)には雨乞い等のために神功皇后陵への使者も務めた。元慶6年(882年)4月28日卒去。享年63。

十世王 班子女王

 50歳を過ぎるまで無位であったが、姉妹の班子女王の夫・時康親王の即位(光孝天皇)に伴い、元慶8年(884年)従四位下に直叙され、翌元慶9年(885年)中務大輔に任ぜられる。
 甥にあたる宇多天皇の治世下にて、寛平2年(890年)従四位上,寛平8年(896年)正四位下と昇進し、寛平9年(897年)参議に任ぜられて65歳で公卿に列した。また、宇多朝から醍醐朝にかけて、約25年の長きにわたり宮内卿を務め、延喜10年(910年)には従三位に至っている。延喜16年(916年)7月3日薨去。享年84。

 光孝天皇の親王時代からの妃。是忠親王,是貞親王,定省親王(のちの宇多天皇)、源元長,忠子内親王,簡子内親王,綏子内親王,為子内親王をもうける。元慶8年(884年)の夫・光孝天皇の即位に伴い、同年4月1日女御となる。藤原基経の異母妹の尚侍・藤原淑子と親密な仲で、所生の定省親王を淑子の猶子としており、この関係が夫・光孝天皇の即位の一因ともされている。仁和3年(887年)、定省親王が宇多天皇として即位すると、同年11月17日皇太夫人となり、さらに寛平9年(897年)7月26日には皇太后となった。昌泰3年(900年)4月1日、68歳で崩御。