<神皇系氏族>天孫系

A103:建斗米命  建斗米命 ― 伊与部馬飼 IY01:伊与部馬飼

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伊与部馬飼 伊与部家守

 伊与部(伊余部)氏は伊与部の伴造氏族。連姓の伊与部氏は、尾張氏の一族で、天火明命の流れを汲む少神積命の後裔とする。
 持統天皇3年(689年)に書物の編集を担当する撰善言司となる。文武天皇4年(700年)律令選定の功績から禄を、大宝元年(701年)『大宝律令』完成によって再び禄を賜与された(この時の位階は従五位下)。
 大宝3年(703年)にも律令選定の功労により、馬養の子が功田6町と封戸百戸を与えられ、田は子の代まで相続を許されたが、封戸は本人限りとされた。天平宝字元年(757年)に馬養自身の功田を下功として10町分の土地を子に継がせた。
 漢詩に優れ、『懐風藻』に漢詩作品が採録されている。また、物語の制作も行ったとされ、現在でもよく知られる伝承的な童話の『浦島太郎』の作者とされる。

 宝亀6年(775年)第16次遣唐使の明経請益生に補され、宝亀8年(777年)渡唐して唐において『五経大義』『切韻』『説文』『字体』を習得する。宝亀9年(779年)帰国すると直講に任ぜられ、のち助教に昇進した。
 延暦3年(787年)右大臣・藤原是公により、家守に『春秋』の3つの注釈書(春秋三伝:『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』)の講義をさせる旨の奏上が行われた。延暦10年(791年)外従五位下に叙せられる。
 釈奠の際に孔子の肖像を掲げる場所について、諸儒学者の見解が一致しなかった。そこで家守は経書の内容や唐でのやり方を勘案して、詳細な報告書を作成して上奏した。その結果、君主のものと同様に孔子の肖像は南面して掲げることに決まったという。

善道真貞

 15歳で大学寮に入学するが、数年の内に大学寮の諸教官にその才能と品行を推されて明経得業生に補せられる。大同4年(809年)官吏登用試験に合格して山城少目に任ぜられ、のち播磨少目に転任する。
 嵯峨朝では、弘仁4年(813年)大学助教を兼ねると、弘仁10年(819年)外従五位下・大学博士に叙任され、翌弘仁11年(820年)には明経道に優れていることを賞され内位の従五位下に叙せられた。またこの間、越前大掾・相摸権介等の地方官も兼ねている。
 淳和朝初頭には大学助・陰陽頭を歴任する。この間の天長2年(825年)の釈奠において、大学博士や学生等が紫宸殿に集められて論議を行った際、真貞の論旨展開と用語が優れているとして、勅により次侍従に任ぜられる。天長5年(828年)には上表して伊与部連から善道宿禰への改姓を許される。天長7年(830年)正五位下に叙せられ、翌天長8年(831年)阿波守に転じるが、『令義解』の撰修に参画したことから任地へ赴くことはなかった。
 仁明朝では、承和3年(836年)朝臣姓に改姓した後、承和5年(838年)正五位上、承和6年(839年)従四位下と昇進する。承和8年(841年)には皇太子・恒貞親王の東宮学士に任ぜられるが、承和9年(842年)に発生した承和の変により恒貞親王が皇太子を廃されると、真貞も備後権守に左遷される。承和11年(844年)国家に功労のある老臣であるとして仁明天皇が憐れんで、真貞は平安京に呼び戻される。諸学者は当代で『春秋公羊伝』を読解できるのは真貞のみであると言ったことから、この学問が廃れるのを防ぐために、真貞は特に命じられて大学で『春秋公羊伝』の講義を行ったという。翌承和12年(845年)2月20日自宅にて卒去。享年78。最終官位は散位従四位下。
 進取の気性に富み、物事に積極的に対処した。春秋三伝、三礼(『周礼』『儀礼』『礼記』)を修め、よく議論を行った。しかし、元より漢音を学ばなかったために四声を識別できず、教授の際には総じていい加減な字音を用いたという。