<桓武平氏>高望王系

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伊作貞時 伊作季基

 多くの系図では平忠通の孫とする。『坂東諸流綱要』では平良持の子とされる。また一説には村岡五郎良文(平良文)4世の伊佐(伊作)平次貞時であるとも言われる(「加世田氏系図」,「谷山氏系図」)。
 伊作平二貞時(胆沢平二貞時)は、969年(安和2年)の安和の変で連座して越後国に配流されたと伝わる。河邊伊作系図によると、平貞時が九州総追補使の地位を得て、肥前国と南九州の領地を得、肥前国鹿島に土着したとあり、貞時の4代・良道の時に薩摩国伊作郷に土着し、伊作良道を称したとされる。ただし、伊作良道は兼重の弟・良忠の子とも伝わり、実際に良道が貞時の直系だったかどうかは不明である(良宗流からの養猶子とも)が、良道が伊作の郡司に補任されたのは史実である。 

 万寿年間(1024~28年)に大宰大監であった季基は、弟の良宗とともに未開の地であった日向国諸県郡島津院を中心として荘園を開墾し、これを関白の藤原頼通に寄進して、後に日本最大級の荘園となる島津荘を成立させた。
 季基は島津荘寄進前から私貿易を行い、唐物を道長に贈っている。季基は平氏系図に名前はないが、高棟王の子孫である平季信と世代と年齢、名前から極めて近親者であると想像され、藤原氏と接近できたのは、宮歌人として知られる季信の娘・出羽弁の仲介があったといわれている。
 万寿3年(1026年)に同地に移住し、荘官として島津荘の経営にあたった。その際、神託を受けて伊勢神宮を勧請し神柱大明神を造営し、その祠官を務めている。
 長元2年(1029年)、大隅国庁および大隅国の住人・藤原良孝の居宅を焼打ちにするが、季基は太宰大弐・藤原惟憲に絹3000余り疋を贈ることによって、犯人として府解に記載されることを免れ、召喚されながらも処分は受けなかった。
 後に家督を娘婿(又は子・兼輔の娘婿)である伴兼貞(肝付氏の祖)に譲り、自らは諸県郡南之郷箸野(橋野とも書く)御所に隠居し、同地に若一王子神社を造営し社司として生涯を終えた。季基の墓所は鹿児島県曽於市末吉町南之郷字橋野にある(同市指定文化財)ほか、その霊は神柱宮の境内末社である基柱神社に祀られている。 

伊作良道 阿多忠景

 良道は薩摩国伊作郷(現・鹿児島県日置郡吹上町)の地に下向、田中城を構え土着し、伊作姓を冠した。伊作良道の子らは河邊一族と言われ(良道の長男・道房が河邊氏を称したため)、各地を支配し権勢を誇った。南北朝時代には南朝方として北朝方の島津氏等と激しく争ったが、後に敗北し臣従した。
 河邊一族の勢力は南薩摩と薩南島(河邊十二島)に広く及び、子孫は各地の地名を名乗った。南薩摩は平安末期から鎌倉時代(終期は諸説あり)にかけて、河邊一族が支配していたが、1221年(承久3年)の承久の乱で河邊久道が郡司を改易されて以降衰えはじめ、得宗家被官の千竈氏に取って代わられた。さらに、源頼朝により大隅国・薩摩国の守護に任じられた惟宗忠久(島津忠久)の子孫の久経,忠宗が弘安の役で武功を挙げてこの地に下向、貞久の代に南北朝時代に入り、南朝方についた薩摩・大隅国人らは貞久と激しく争うが敗れ臣従することになる。 

 阿多忠景は、阿多郡を大宰府に寄進するなど一族内で勢力を伸ばし、継嗣の兄である川辺道房を討つ。兄弟である頴娃忠永,別府忠明や鹿児島忠吉の支援を受け薩摩国や大隅国の荘園を奪い、あるいは国府の支配強化を進めた。
 その頃、中央では平清盛の権勢が伸長した時期であり、朝廷より薩摩・大隅・日向の三国で専横した廉で追討の宣旨を受け、清盛郎党・平家貞に攻められ、平治年間(1159~63年頃か)には硫黄島(鬼界ヶ島または貴海島)に流れたと伝わる。忠景の所領は薩摩国府の大蔵氏に与えられた。
 阿多郡(現・南さつま市)は12世紀当時、天然の良港(坊津港,万之瀬川河口)を備え南九州の交易の中心であった。日宋貿易やそれに伴う高麗貿易,南島交易の最重要拠点であり、また同貿易が朝廷の統制を受けない私貿易であった。川辺・阿多一族も交易利権で勢力伸長しており、大宰府を含む交易利権を巡る平氏政権との衝突が背景にあった。