<桓武平氏>高望王系

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平子有長 平子政重

 治承4年(1180年)の源頼朝の旗揚げのとき、久良気三郎次長の曾孫にあたる平子弥平右馬允有長は宗家の三浦氏に加わって頼朝のもとに馳せ参じ、三浦氏の推挙を受けて御家人となった。以後、源平合戦に出陣し平家追討に功があった。有長は出陣にあたって磯子の真照寺を再興して平子一族の菩提寺とし、毘沙門堂を建立した。毘沙門堂に祀られた毘沙門像は、有長の影像といわれ今も真照寺に安置されている。
 鎌倉御家人となった平子有長は、弟の経長に平子郷のうち本牧・石川を分割譲与した。

 『平子系図』によれば、応永29年(1422年)に平子太郎左衛門尉から斎藤小三郎にあてた書状があって、子のない太郎左衛門尉が斎藤氏から牛法師丸を養子に迎えて所領を譲り、のちに実子ができても変更しないことを申し送ったものである。斎藤氏は上杉氏の奉行人・加判衆として活躍した譜代的な国衆で、同じ上杉氏の被官的立場にあった平子氏とは親しい関係にあったことがわかる。
 養子の牛法師丸はのちに政重を名乗り、戦国時代初期に本庄氏反乱のことで府中から中条氏のもとへ使者がたてられたとき、斎藤氏とともに下向している。文明4年(1472年)には平子政重・朝政父子の名が見い出される。平子氏は守護上杉氏の重臣に列なって越後の要所に所領をもち、また諸所に発給した守護所の文書に加判者として登場している。
 平子政重は上杉房定の奉行を務め、政重の子・朝政は平左衛門尉を称し、朝政の名乗りは上杉房朝からの一字拝領したものとみられる。朝政は父とともに房定に仕えて奏者番をつとめ、長享元年(1487年)には中条氏と黒川氏の20年来の所領紛争を取り扱っている。

平子房長
 平子房政のあとを継いだ房長は若狭守を称し、謙信麾下の将の一人として上杉軍の一翼を担った。永禄11年(1568年)、武田軍が信濃長沼に在陣していることを知った謙信がただちに関山城へ長尾景信らの援軍を送った。このとき、平子若狭守も宇佐美・須田氏らとともに在城した。平子氏はもう小千谷の一領主ではなく、上杉軍の一部将として軍団を率いつつ各地の番城の城将をつとめる存在となっていた。