<桓武平氏>高望王系

H501:平 忠通  平 高望 ― 平 将常 ― 平 忠通 ― 岡崎義実 H525:岡崎義実

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岡崎義実 佐奈田義忠

 治承4年(1180年)8月9日、源頼朝が伊豆国で挙兵を決めると嫡男の与一義忠とともに直ちに参じた。挙兵を前に義実は源氏の御恩のために身命を賭す武士として、特に頼朝の部屋に呼ばれて合戦について相談され「未だに口外していないが、汝だけを頼りにしている」との言葉を受けるが、実は、工藤茂光,土肥実平,宇佐美助茂,天野遠景,佐々木盛綱,加藤景廉も同じことを頼朝から言われている。ただ、義実・義忠父子が特に頼みにされていたのは事実で、挙兵前にあらかじめ土肥実平と伴に北条館へ参じるよう伝えている。
 8月17日に頼朝は挙兵して伊豆目代・山木兼隆の館を襲撃してこれを殺害した。頼朝は300余騎の軍勢を率いて相模国の土肥郷へ進出。23日に石橋山で平家方の大庭景親率いる3,000余騎と相対した。石橋山の戦いは寡兵の頼朝方が大敗を喫し、義実の嫡男の義忠が討ち死にしている。敗走した頼朝は山中に逃げ込み、土肥実平の進言で一旦兵を解散させることになった。一同は安房国で再会することを約し、泣く泣く別れた。義実は北条時政や三浦義澄らと先発して安房へ舟を出し、後から到着した頼朝を迎えた。その後、頼朝は千葉常胤や上総広常らの軍勢を加えて再挙し、関東の武士が続々と参陣して10月6日に鎌倉に入った。
 10月20日の富士川の戦いに参加し、合戦は戦わずして平家が敗走して終わった。合戦後の夜に、一人の青年が黄瀬川の陣に現れ頼朝との面会を求めたが、その場にいた義実は怪しんで取り次ごうとしなかった。騒ぎを聞きつけた頼朝が面会すると、その青年は弟の九郎義経であった。兄弟の対面に義実をはじめとする諸将は涙した。有名な黄瀬川の対面である。
 治承5年(1181年)6月、三浦義澄の館へ頼朝が渡り酒宴が催された。その席で、義実は頼朝着用の水干を所望し、頼朝は快く許したが、それを妬んだ上総広常とつかみ合いの喧嘩になりかかった。三浦一族の佐原義連が仲裁に入り、ことを収めた。頼朝政権の中で飛びぬけて多くの兵力を有する広常には驕慢な振る舞いが多く、京を制して武家政権を樹立するよりも関東割拠を主張するなど危険な存在であったため、この3年後の寿永2年(1184年)に頼朝の命令で梶原景時に暗殺されている。
 義実の元には、石橋山の戦いで嫡男の佐奈田義忠を討ち取った長尾定景が預けられていた。慈悲深い義実は息子の仇を討って首を刎ねることなく囚人として捕らえるに留めおり、定景は日々法華経を読経していた。ある日、義実は頼朝に「読誦を聞くうちに怨念は晴れました。もしも彼を斬れば、冥土の義忠が難を蒙りましょうから」と言って定景の赦免を願い出て、治承5年(1181年)7月に頼朝はこれを許した。
 文治4年(1188年)8月、義実は相模国波多野本庄北方の所領を巡って波多野義景と訴訟になり、義実は敗訴し、罰として鶴岡八幡宮と勝長寿院での100日間の宿直を命じられたが、結局、この罪は翌9月に義実の郎党が箱根山で山賊の字王藤次を捕らえたことで許されている。翌年の奥州藤原氏討伐にも先次郎惟平とともに従軍している。
 建久4年(1193年)8月24日、義実は大庭景義とともに老衰であるためとして出家入道した。建久10年(1199年)10月に三浦義村と和田義盛が主導した梶原景時の変の景時弾劾連判状に義実入道は名を連ねている。
 正治2年(1200年)3月14日、老衰した義実入道は尼御台所(北条政子)の御所を訪ね、所領僅かで子孫のことが案じられると泣いて窮状を訴えた。政子はこれを憐れみ、石橋山の合戦の大功は老後であっても賞せられるべきであると将軍・源頼家に一所を与えるよう使いした。その3ヶ月後の6月21日に義実は89歳で死去した。

  久寿2年(1155年)、岡崎義実の子として誕生。父の義実は相模国大住郡岡崎に住したことから岡崎氏を称した。嫡男の義忠は岡崎の西方の真田(佐奈田)の地を領した。
 治承4年(1180年)8月8日、父・義実とともに源頼朝の挙兵に参じ、山木兼隆館襲撃に加わった。同年8月23日、頼朝の軍勢300余騎は大庭景親率いる平家方3000余騎と相模国石橋山で対陣した。父・義実の推挙により、頼朝は武勇優れる義忠に「大庭景親と俣野景久(景親の弟)の二人と組んで源氏の高名を立てよ」と先陣を命じた。義忠は討ち死にを覚悟し、57歳になる老いた郎党の文三家安に母と妻子の後事を頼もうとするが、家安は義忠が2歳の頃から親代わりにお育てしたのだからお伴をして討ち死にすると言い張り、義忠もこれを許した。
 頼朝は義忠の装束が華美で目立ちすぎるだろうから着替えるよう助言するが、義忠は「弓矢を取る身の晴れの場です。戦場に過ぎたることはありますまい」と言うと白葦毛の名馬にまたがり、15騎を率いて進み出て名乗りを上げる。大庭勢はよき敵であると見て大庭景親,俣野景久,長尾新五,新六ら73騎が襲いかかった。この合戦は夜間に行われ、その上に大雨で敵味方の所在も分からず乱戦となった。義忠は郎党の文三家安に自分は大庭景親か俣野景久と組まんと思っているから、組んだならば直ちに助けよと命じた。すると、敵一騎が組みかかってきた、義忠はこれを組み伏せて首をかき切るが、景親や景久ではなく岡部弥次郎だった。義忠は残念に思い、首を谷に捨ててしまった。闇夜の乱戦の中、敵を探していると目当ての俣野景久と行き会った。両者は馬上組みうち、地面に落ちてころげ、泥まみれの格闘の末に義忠が景久を組み伏せた。暗闇のためにどちらが上か下か分からず、家安も景久の郎党も手が出せない。敵わじと思った景久は叫び声を上げ、長尾新五が駆け付けるがどちらが上下か分らない。長尾新五は「上が敵ぞ?下が敵ぞ?」と問うと、義忠は咄嗟に「上が景久、下が与一」と言う。驚いた景久は「上ぞ与一、下ぞ景久、間違えるな」と言う。とまどった長尾新五は手探りで鎧の毛を触り、上が義忠と見当をつけた。これまでと思った義忠は長尾新五を蹴り飛ばし、短刀を抜いて景久の首をかこうとするが、不覚にも鞘ごと抜き放って刺さらなかった。鞘を抜こうとするが先ほどの岡部の首を切った時の血糊で鞘が抜けず、そのうちに長尾新五の弟の新六が背後から組みかかり、義忠は首を掻き切られて討ち死にした。享年25(石橋山の戦い)。なお、主人を失った文三家安は奮戦して稲毛重成の手勢に討たれた。
 頼朝が治承・寿永の乱で勝利し、武家政権をほぼ確立させた建久元年(1190年)正月20日、頼朝は三島,箱根,伊豆山参詣の帰りに、石橋山の与一と文三の墓に立ち寄り、哀傷を思い出し涙を流したという。義忠の戦死した地には佐奈田霊社が建てられている。義忠が組み合っていたとき、痰がからんで声が出ず助けが呼べなかったという言い伝えがあり、この神社は喉の痛みや喘息に霊験があるという。
 江戸時代に入ると佐奈田与一は美男の人気者になり、多くの錦絵が描かれている。

岡崎実忠
 建保元年(1213年)5月23日に一族の和田義盛が挙兵すると(和田合戦)、実忠は叔父の土屋義清や中村党とともに一族を引き連れて和田方に加勢した。この戦いで義清は敵の本陣を突こうとして討ち死にし、実忠も一族とともに討ち死にした。ここに岡崎氏は壊滅した。