<桓武平氏>高望王系

H521:蘆名光盛  平 高望 ― 平 将常 ― 平 忠通 ― 三浦義明 ― 佐原義連 ― 蘆名光盛 ― 蘆名盛高 H522:蘆名盛高

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蘆名盛高 蘆名盛滋

 文正元年(1466年)、父の死により家督を相続する。文明11年(1479年)には土豪・渋川義基を滅ぼして勢力を拡大し、明応3年(1494年)、伊達尚宗が家臣団の反抗に遭って領内から避難して来たときは、これを助けている。明応9年(1500年)には重臣・松本輔政を、翌年には一門の猪苗代盛頼を討ち取るなど、家中の反抗的な者を討ち、蘆名氏の戦国大名化に尽力した。
 しかし、次第に子の盛滋と不仲になり、永正2年(1505年)にはついに両者が戦い、敗れた盛滋は伊達尚宗の下に逃れたが、盛高は後に盛滋の罪を許して帰国させている。
 領土拡大にも積極的であり鴫山城主の長沼政義とともに下野国への進出を狙い下野の戦国大名・宇都宮成綱と戦った。永正14年(1517年・西暦では翌1518年)12月8日、死去。享年70。盛滋が家督を相続した。 

 文明14年(1482年)、第13代当主・蘆名盛高の子として生まれる。武勇に優れ、文亀元年(1500年)には父に従って猪苗代盛頼を討っている。しかし次第に父・盛高と対立を深め、永正2年(1505年)、重臣・松本氏の支援を受けて盛高と合戦に及んだが、敗れて伊達尚宗の下に逃走した。
 後に盛高と和解して帰国し、永正14年(西暦では翌1518年)12月、盛高の死により家督を相続した。永正17年(1520年)には伊達稙宗の援軍として上山城主・最上義房と戦っている。
 永正18年(1521年)2月6日、死去。享年40。実子・盛幸がいたが、弟の盛舜が家督を相続したため、盛幸は別家・針生氏を興した。盛滋の生没年には異説が多く、生年には寛正4年(1463年)説もあり、没年には天文9年(1540年)6月23日(享年59)説もある。

蘆名盛舜 蘆名盛氏

 延徳2年(1490年)、第13代当主・蘆名盛高の子として生まれる。
 永正18年(1521年)2月、兄である第14代当主・盛滋の死去にともない家督を相続する。相続直後に松本氏による反乱があったため、松本大学とその弟・藤左衛門を倒し、さらに猪苗代氏の反乱も鎮圧して家中を安定させる。
 盛舜は伊達稙宗,相馬顕胤と同盟し、岩城氏や結城氏と対抗して中通り方面へも領土を拡大した。
 天文10年(1541年)、子の盛氏に家督を譲って隠居し、天文22年(1553年)8月21日、死去。享年64。 

 天文6年(1537年)には伊達稙宗の娘を正室に迎え、天文10年(1541年)に父・盛舜から家督を譲られた。天文11年(1542年)は、山内氏を討って会津における勢力を拡大する。同年に発生した伊達氏の天文の乱では、当初は稙宗方についたが、天文16年(1547年)に同じく稙宗方の田村隆顕と中通りにおいて衝突したため晴宗方に転じた。このため晴宗方の優位が決定的なものとなり、天文の乱は晴宗方の勝利に終わった。
 天文19年(1550年)からは本格的に仙道(中通り)への進出を開始して田村隆顕と戦うが、田村氏を援助する常陸の佐竹氏の妨害もあって容易には進まなかったため、佐竹氏と敵対する相模の北条氏康や、甲斐の武田信玄と同盟して佐竹氏に対抗した。
 また、内政面では簗田氏を商人司に起用することで流通支配の強化を図った。永禄4年(1561年)、庶兄・氏方の謀叛を鎮圧する。この年、盛氏は家督を嫡男・盛興に譲って、大沼郡岩崎城に隠居し、剃髪して止々斎と号した。しかし隠居後も政治・軍事の実権を掌握し、引き続き家中の統制にあたった。
 永禄6年(1563年)、須賀川城主・二階堂盛義と戦い岩瀬郡へと進攻する。盛義は晴宗の長女・阿南姫を娶っていたので、伊達軍が二階堂氏救援のために数度にわたって桧原に攻め込んできたが、岩山城主・穴沢信徳がこれを撃退した。永禄9年(1566年)には盛義が嫡男・盛隆を人質に出して降伏したため、盛興の正室に晴宗の4女・彦姫を迎える条件で蘆名・伊達間でも講和が成立した。天正2年(1574年)には、伊達実元と共に田村氏傘下の二本松義国,大内義綱を破り、田村清顕を従属させることに成功した。だが、同年6月に家督を継いでいた盛興が29歳の若さで急死してしまう。盛興には男子がおらず、さらに盛氏にも他に男子が無かったため、人質としていた二階堂盛義の子・盛隆に盛興未亡人を娶らせて蘆名家の家督を継がせ、盛氏が後見人として政務を執った。
 その後も盛氏は、天正3年(1575年)には女婿・結城義親を支援して白河結城氏の家督相続問題に介入したり、天正6年(1578年)には上杉謙信死後の混乱(御館の乱)に乗じて、越後に出兵するなど積極攻勢を続けた。永禄3年(1560年)から天正4年(1576年)にかけて6度も徳政令を出せるほど蘆名の権力は強化されていたが、二階堂氏出身の新当主・盛隆に反発する重臣たちとの不和や、長年にわたる田村・佐竹との抗争による戦費の不足などにより、盛氏の晩年にはすでに蘆名氏は徐々に最盛期の力を失いつつあった。
天正8年(1580年)6月17日に死去。享年60。

蘆名氏方 蘆名盛興

 母が遊女であったためか、弟・盛氏が誕生すると黒川城を出され、富田義実の元で養育された。
 永禄4年(1561年)2月、盛氏が長沼実国を攻め黒川を留守にした際、義実父子らに奉じられ謀叛を企てるが、数日で鎮圧され、東山にて家臣と共に自害した。 

 天文16年(1547年)、第16代当主・蘆名盛氏の嫡男として誕生。生年については異説もあるが、概ね1547年生で正しいとされる。母親は盛氏の正室である伊達稙宗の娘。結婚後10年目にしてようやく授かった世継ぎであった。
 父と同様に智勇に優れ、永禄4年(1561年)、14歳で家督を譲られて蘆名氏の勢力拡大に奔走した。しかし、この盛氏の隠居と家督相続には、働き盛りの盛氏がまだわずか15歳の盛興に家督を譲り隠居するなど考え難いと疑問を呈されている。蘆名氏はこの時期内憂外患を抱え、また盛氏もこの後も蘆名家代表として精力的に活動していることから、「隠居」は口実であったとも考えられる。1566年(永禄9年)、父・盛氏が伊達輝宗に、輝宗の妹(伊達晴宗4女)を盛興の妻に迎え入れたいという起請文を提出している。輝宗に受理され、盛興は輝宗の妹を妻として迎えた。8年前の1558年(永禄元年)にもこの縁談は持ち上がっていたが、この時は結婚することはなかった。盛興が当時まだ12歳で若すぎた、などの理由があったと考えられる。
 しかし盛興は跡継ぎに恵まれないまま天正2年(1574年)に病死した。死因は酒毒とされている。死因を酒毒とした場合、盛興の「病気」はかなり長期に亘っていたとも推測される。盛興の妻は伊達輝宗へ手紙を送っていたことがあるが、盛興が酒の毒の長年患っていた場合、彼女は盛興の代理として輝宗と手紙のやりとりをしていたと考えられる。
 世継ぎには恵まれなかった盛興だが、正室との間には女子が一人生まれていた。盛興の死後、盛氏は二階堂家から蘆名盛隆を養子に迎え、蘆名氏の家督を継がせた。 

蘆名盛隆 蘆名義広

 永禄4年(1561年)、須賀川二階堂氏の第18代当主・二階堂盛義の長男として生まれる。永禄8年(1565年)に父・盛義が蘆名盛氏に敗れて降伏したとき、人質として会津の盛氏のもとに送られた。ところが、天正3年(1575年)に蘆名氏第17代当主・盛興が継嗣を残さずに早世すると、盛興未亡人の彦姫(叔母にあたる)を自らの正室に迎えた上で、盛氏の養子となって第18代当主となり、天正8年(1580年)に盛氏が死去すると実権を掌握した。
 この頃、天正9年(1581年)、盛隆と叔父の伊達輝宗は、越後の新発田重家が後継者争い(御館の乱)の後に新たに越後国主となった上杉景勝に対して不満を募らせている状況を見て、上杉に対して反乱を起こさせるべく様々な工作を行った。6月16日、重家は一門衆のほか、同族加地秀綱ら加地衆や、御家騒動の際に景勝の対立勢力だった(上杉景虎方)豪族らを味方に引き入れ新潟津を奪取し支配、以降7年間に渡って景勝を苦しめる。
 この頃、北陸地方で上杉氏と争っていた織田信長はこれを挟撃するべく、上杉氏を離反した新発田重家及び東北の諸大名の懐柔のため外交を始めた。当初、盛隆は上杉景勝とも誼を通じ度々連絡を交わしていたが、天正9年(1581年)に家臣の荒井万五郎を上洛させ信長と交渉を行った。これは、盛隆から接近したとも、信長が景勝を挟撃するために盛隆を誘ったともいわれる。盛隆は信長に名馬3頭・蝋燭1000挺を献上すると、信長はこれに応えて、盛隆が三浦介に補任されるよう朝廷へ斡旋した。蘆名氏は三浦義明の末裔であり、盛隆にとって三浦一族代々の官途である三浦介を名乗ることは名誉であり、信長もこのことで盛隆の心を掌握しようとしたと考えられる。その後、盛隆は重臣の金上盛備を上洛させている。
 信長と接近したことで、盛隆は上杉景勝との関係が疎遠になった。その後も景勝からは新発田氏挟撃などの援軍の要請などがあったが、盛隆はこれに対して曖昧な態度を取り続けることに終始し、天正10年(1582年)には景勝からの出兵依頼を断るどころか、金上盛備に重家を援護させ、赤谷城に小田切盛昭を入れるなど、重家を援護する介入を行った。
 蘆名氏当主となった盛隆は、父・盛義と共に蘆名氏の力を用いて衰退していた実家の二階堂氏の勢力回復に務めた。そのため、元は二階堂氏からの人質であった盛隆に反感を抱く家臣による反乱がたびたび起こった。上記の新発田氏支援に対抗するため、上杉景勝は蘆名家中の撹乱を狙い、重臣の直江兼続に命じて富田氏実や新国貞通などの盛隆に反抗的な重臣達を調略し反抗させることで、蘆名氏に揺さぶりをかけた。
 天正12年(1584年)6月に盛隆が出羽三山の東光寺に参詣した隙を突かれて栗村盛胤,松本行輔らに黒川城を占拠されたが、盛隆はこれを素早く鎮圧し、7月には長沼城主の新国貞通(栗村の実父)を攻めて降伏させた。
 同年10月6日、黒川城内で寵臣であった大庭三左衛門に襲われて死亡した。享年23。家督は生後1ヶ月の息子・亀王丸が継ぎ、亀王丸の母・彦姫が隠居した兄・伊達輝宗の後見を受けて蘆名氏をまとめることになった。しかし、輝宗の跡を継いだ政宗は同盟関係を破棄して蘆名氏を攻め(関柴合戦)、亀王丸も天正14年(1586年)に疱瘡を患って夭逝するなどの不幸が重なり、蘆名家中は混迷した。この盛隆の早すぎる死が、蘆名氏滅亡を早めた原因といえる。 

 天正3年(1575年)、佐竹義重の次男として生まれ、天正7年(1579年)に白河義親の養子となる。蘆名氏はこの頃、混乱を迎えていた。盛隆の代に蘆名氏が伊達輝宗と組んで始めた越後への介入、新発田重家に対する支援が、盛隆が死に、伊達氏からの養子が未遂に終わり、伊達氏の当主が輝宗の隠居により政宗に代替わりすることで破綻していった。新発田重家に対抗する越後の上杉景勝と政宗が組んで、新発田氏・蘆名氏を攻撃する情勢となり、また上杉氏や伊達氏は度重なる当主交代に混乱する蘆名氏の家臣団を調略することで、その勢力を削いでいった。
 天正13年(1585年)5月、伊達政宗が蘆名と開戦(関柴合戦)、これは蘆名氏が撃退するものの、秋には上杉景勝が新発田領への侵攻の際、伊達氏が領内の通過を許可するなど、蘆名・新発田側と上杉・伊達側が対立し、蘆名側は劣勢に立たされていった。同年11月17日(1585年1月6日)に佐竹氏,蘆名氏らの南奥諸大名の連合軍と伊達氏の間で人取橋の戦いが起こり、これには勝利した。
 この頃、蘆名盛隆の子・亀王丸が夭折したため、家中は養子を巡って二分することになる。伊達氏の小次郎を推す蘆名一門衆の猪苗代盛国、平田氏や富田氏ら蘆名宿老の大半、外様の国人領主ら伊達派勢力と、重臣で中央政権との繋がりの深い金上盛備ら義広を推す佐竹派勢力とに二分された。この後継者争いは金上の政略により義広派が勝利し、天正15年(1587年)、盛隆の養女と結婚して蘆名義広と名乗り、蘆名氏当主となる。しかし他家からの養子であり、前述の後継者争いでの紛糾、当人の年齢も若かったため、家臣団を掌握することができずにいた。この際、伊達氏との仲が決定的に決裂することとなる。さらに義広に付属して佐竹氏から送り込まれた大縄義辰らの家臣団が蘆名氏を支配し、伊達派の宿老らを次々と失脚させていった。
天正15年(1587年)夏、中央で覇権を掌握しつつあった豊臣秀吉の支援を受けた上杉景勝は1万余の大軍をもって新発田重家の本拠地である新発田城を包囲した。周囲の諸城は上杉勢に次々攻略される中、蘆名氏は金上盛備を赤谷城の救援に派遣するが、上杉氏の藤田信吉に阻まれて撤退、赤谷城は陥落し、補給路を失った新発田重家は孤立し、10月25日に自害した。
 天正16年(1588年)2月から7月にかけて安積郡郡山城,窪田城一帯で蘆名氏・相馬義胤・佐竹氏連合軍と伊達軍との間で起こった郡山合戦では大内定綱の離反もあり敗北した。
 天正17年(1589年)に入ると伊達氏の攻勢・調略はさらに苛烈となり、猪苗代盛国らが伊達氏に付く。旧暦6月5日、伊達政宗との間に起こった総力会戦ともいえる摺上原の戦いに臨むも、蘆名四天王の富田氏実らは勝手に撤退、多くの隊が傍観するなど家臣らの離反が相次ぎ、金上盛備や四天王の佐瀬種常・常雄らが戦死するなど大敗した。義広とその近臣は戦場を逃れたが、もはや本拠の黒川城を守備する兵力を維持することは不可能であったため、大縄義辰や二本松義綱を含めた一行(20余人あるいは女中含め119人とも)は6月10日の夜に紛れて実家佐竹氏の常陸に逃れた。黒川城は伊達氏により陥落され、山内氏勝らの例外はあるものの、針生盛信ら多くの蘆名家旧臣や諸豪族は伊達氏に恭順した。奥州蘆名氏はその支配地域を失い、奥州の戦国大名としての蘆名氏は終了した。
 しかし、これらは豊臣秀吉が天正15年(1587年12月)に関東・奥州に対して発令した私戦を禁止する「惣無事令」以降のことであったため、その後の天正18年(1590年)の秀吉の小田原征伐の際、秀吉に恭順した政宗は、奪い取った蘆名領を全て没収された(宇都宮仕置・奥州仕置)。蘆名領は蒲生氏郷に与えられ、義広への返還はなされなかった。その後、秀吉から佐竹氏与力として、佐竹氏の領国に近い常陸の龍ヶ崎に4万石、次いで江戸崎に4万5,000石を与えられ、大名としての蘆名氏は一応復興した。盛重と名乗ったのはこの時期であると言われている。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで兄の佐竹義宣が西軍に与したため、連座して所領を没収された。慶長7年(1602年)、義宣・義重とともに秋田領に入り、名を義勝と改め、仙北郡角館に1万6,000石を与えられた。義勝は、元和6年(1620年)古城山の南側に新たに町割を起こし、城下を移転、整備した。これが今日の角館城下町の始まりである。角館に随従した蘆名家家臣は、総勢は200名程度だったといわれる。あわせて、会津若松にあった天寧寺の末寺として山号・寺号をそのままに角館城下東方の花場山の麓に天寧寺を創建、菩提寺とした。寛永8年(1631年)病死、享年57。 

蘆名盛俊 蘆名千鶴丸

 父・義勝の死から4ヶ月後にあたる寛永8年(1631年)に誕生。母は安昌院。幼名は千鶴丸。
 寛永20年(1643年)3月、江戸にのぼって元服し、平三郎盛俊と名乗った。この年の6月に江戸幕府3代将軍・徳川家光に拝謁している。慶安3年(1650年)には、宇都宮氏出身の正室(のちの松寿院)によって、嫡子・千鶴丸が誕生した。
 慶安4年(1651年)に病死。家臣の岩橋又右衛門,宮崎主殿介,下男(草履取り)が殉死している。墓は角館町所在の天寧寺に父母や妻子、夭折した兄盛泰、殉死した家臣などとともに葬られている。

 慶安3年2月17日(1650年3月19日)、久保田藩の重臣・蘆名盛俊の子として誕生。母は宇都宮氏出身の松寿院。
 慶安4年6月10日(1651年7月27日)に父・盛俊が20歳で死去したため、わずか1歳で家督を継いだ。ところが、承応2年(1653年)、菩提寺である曹洞宗天寧寺に参詣した折、縁側から敷石(沓脱石)に転落死した。享年4(満3歳没)。かつては「会津守護」とよばれた蘆名家もここに途絶えた。
 千鶴丸の死後、母・松寿院は実家の宇都宮家に戻る。蘆名家には安昌院(千鶴丸祖母)が残り、古城山南麓の「山屋敷」と呼ばれた地に居住して元禄4年(1691年)まで生きた。
 明暦2年(1656年)、蘆名家の絶家が正式に確定して、当時士分だった家臣117名はそれぞれ分散、蘆名家に代わって角館に入部したのは佐竹北家であった。蘆名家旧家臣には北家に召し抱えられた者もおり、武家屋敷を今に伝えている。