<桓武平氏>高望王系

H516:佐原義連  平 高望 ― 平 将常 ― 平 忠通 ― 三浦義明 ― 佐原義連 ― 蘆名光盛 H521:蘆名光盛

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蘆名経光 蘆名盛員

 豪気な人物で、狩りを良くしたと云われる。文永9年(1272年)に伯耆守護となった。これは二月騒動で討たれた北条時輔の後を受けてのものである。また、二月騒動では実弟・盛信が自害している。
 守護となった経光だったが、大山寺境内にて「鬼神の如き」と言われるほどに獣や蛇を狩るなど、蛮行に及んでいたため、数年で守護職を解任されてしまった。解任後しばらくの間、経光は諸国を流浪したという。
 守護解任の後、実弟・泰盛が経光の私領を侵すという事件が起きた。経光は幕府に泰盛の非行を訴えたが、さらに泰盛は経光に対して「物乞い」と悪口した。この悪口と所領横領の咎により、泰盛は幕府によって罰を受け、領地も経光に還された。しかし、後世に栄えた蘆名氏は泰盛の系統である。

 父・盛宗の後を受けて当主となる。建武元年(1333年)、幕府軍の一員として上洛し、後醍醐天皇を追討しようとしたが、敗れた。建武2年(1335年)7月、北条時行が中先代の乱を起こして挙兵すると、これに呼応して三浦時継らと共に鎌倉に赴いた。しかし同年8月、足利尊氏の反攻を受けて相模国片瀬川の戦いで戦死した。家督は蘆名直盛が継いだ。
 生年には異説が多く、一説には永仁4年(1296年)説もある。

蘆名直盛 蘆名盛詮

 建武2年(1335年)、父の盛員と長兄の高盛が中先代の乱で戦死したため跡を継いだ。新宮明継などと刃を交え、貞和年間から台頭して勢力を拡張した。観応3年(1352年)閏2月に足利尊氏と新田義宗,義興が小手指原で合戦に及んだ際には、最初は尊氏に荷担していたが石塔義房,三浦高通らと共に新田側に離反し、尊氏が敗走する原因をなした。しかし、千葉氏胤,結城基光の助力を得て巻き返した尊氏に敗れ、会津に敗走した。
 文中2年(1373年)には、三浦小荒井入道に対して大荒居村の領有に関する安堵状を与えている。大荒居村は佐原氏の所領である加納庄にあり、安堵状発給は直盛が勢力を拡充させて佐原氏の領地を脅かしていたことの証左とされる。蘆名氏の南北朝期の動静は不明な点が多いが、会津地方に土着したのはこの直盛の代とされる。
 元中元年/至徳元年(1384年)に黒川城(後の若松城)の前身となる東黒川館を築いたと伝わる。

 宝徳3年(1451年)、父・盛信の死により家督を継ぎ当主となるが、家臣団の一部から盛詮の相続に不満を持つ者が現われ蘆名氏内部で内乱が発生した。盛詮は結城直朝の支援を受けて、これを鎮圧している。長禄3年(1459年)から伊達持宗や直朝と抗争するも決着はつかなかった。翌長禄3年(1460年)、将軍・足利義政から古河公方・足利成氏追討令を発されたが、盛詮は周囲の情勢から従軍はできなかった。
 文正元年(1466年)死去し、後を子の盛高が継いだ。