<桓武平氏>高望王系

H431:平 忠常  平 高望 ― 平 忠常 ― 粟飯原常基 H469:粟飯原常基

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粟飯原朝秀 粟飯原清胤
 粟飯原有胤に子がなく、粟飯原盛家の6代目の孫・朝秀が継いでいる。しかし、粟飯原氏は、建暦3年(1213年)5月の和田合戦によって朝秀と3人の子がとともに殺されるといったんは滅亡した。ところが、朝秀の嫡孫・粟飯原胤秀は逃れて千葉介成胤に保護され、成胤の弟・寛秀(孫三郎)に仕えて粟飯原氏を再興する。その後、寛秀が粟飯原氏嫡流を継承し、その子・常行は千田庄内にも所領を受けた。

 千葉氏光の子で、従兄弟にあたる千葉氏胤の後見役を務めると共に、足利尊氏・直義兄弟に重用されて室町幕府の評定奉行人、更には政所執事・引付奉行にも就任して活躍した。貞和元年(1345年)8月の天龍寺供養には、千葉介氏胤,東常顕ら千葉氏一族ともに供奉している。しかし、正平8(1353)年6月、南朝の山名時氏,楠木正儀らの軍勢と京都で戦い、足利義詮とともに出陣して奮戦ののち戦死した。
 弟は尊氏の4男・基氏に従って鎌倉に下り、その偏諱を受けて基胤と名乗っている。清胤の子は尊氏の嫡男・義詮より偏諱を受け詮胤と名乗り、父同様に幕府に重用された。この系統は以降も奉公衆として幕府に臣従して繁栄した。