H417:入来院定心 | 平 高望 ― 平 将常 ― 渋谷重国 ― 入来院定心 ― 入来院重時 | H418:入来院重時 | ● |
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入来院重時 | 入来院重高 |
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島津以久の次男。子のなかった入来院重豊の養嗣子として入り、入来院氏の15代当主となる。豊臣秀吉の九州平定では島津歳久,新納忠元らと共に奮戦した。 |
島津忠富を名乗るが、長兄・忠辰が豊臣秀吉の怒りを買って改易されると、兄達と共に小西行長の身柄預かりとなる。文禄3年(1594年)、行長に従い朝鮮の役に従軍し軍功を上げたが、慶長2年(1597年)に島津義弘の陣へと参じ、南原城攻めや泗川の戦いで軍功を上げた。朝鮮から戻ると名を久秀と改める。 |
入来院重頼 | 入来院重堅 |
寛永6年(1629年)、島津氏の家臣・入来院重通の子として生まれる。寛永16年(1639年)、藩主・島津光久の祖父の入来院重高邸御成の際に、光久が加冠役、宮之城島津家・島津久通が理髪役となり元服する。以後光久に近侍した。 |
延宝3年(1675年)、日置島津家・島津久竹の次男として生まれる。天和2年(1682年)、入来院重治の娘を娶り婿養子となる。天和3年(1683年)、養父の死去により家督を相続し入来領主となる。 |
入来院明雅 | 入来院定勝 |
寛文12年(1672〈2月28日、藩主・島津光久の17男として生まれる。延宝6年(1678年)光久の加冠、島津久祐の理髪で元服し、虎助久重と名乗る。 |
父の島津継豊は強度の疝癪による目まいに悩まされ、享保21年(1736年)に江戸に参勤した後、帰国できず、翌元文2年(1737年)に在府の願いを幕府に出して許可され、以後12年にわたって江戸に滞在することとなったが、こうした中で鹿児島において出生する。また、継豊が最後に儲けた子供でもある。母の実家と同族の桓武平氏渋谷氏の庶流・入来院氏23代目当主の入来院定恒の養子となり、元文4年(1739年)に家督を相続する。 |
入来院公寛 | |
天保7年(1837年)2月11日に島津柄山の子として誕生。安政元年(1854年)7月、入来院定極の養子となって入来院氏の家督を相続する。安政3年(1856年)、詰衆となる。文久3年(1863年)7月の薩英戦争の際に、領内の兵を率いて、荒田正建寺に陣を張る。慶応4年(1868年)、長崎の幕領鎮撫のため、領内より小隊を出兵させた。明治3年(1870年)、入来領3500石を奉還する。翌明治4年(1871年)11月7日死去。享年35。 |