<桓武平氏>高望王系

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入来院重豊〔10代当主〕 入来院重聡

 嘉吉元年(1441年)2月27日に家督を相続した。この頃の薩摩国は、島津氏9代守護・島津忠国と実弟・用久の対立を軸に、入来院氏,東郷氏,祁答院氏ら渋谷一族を中心にした国人らが国一揆を起こしては抗っていた。しかし、文安5年(1448年)に忠国と用久が和睦し共に国一揆を討伐、牛屎氏や和泉氏が所領を没収され、重豊ら渋谷一族には段銭を厳しい値に改訂される措置が取られた。ただその一方で、島津氏は渋谷氏との和解政策も行っており、寛正3年(1462年)、後に10代守護となる島津立久は、重豊へ火同城,永利城,山田城を与え、更に相互扶助を約した契状を取り交わしている。
 文明8年(1476年)、11代守護・島津忠昌に対し、薩州家の島津国久並びに豊州家の島津忠廉が造反、これに相良為続,菱刈道秀が与した際には、重豊を含む渋谷一族は守護方に就いた。重豊も文明13年(1481年)に忠昌と盟約の契状を取り交わしているが、文明16年(1484年)伊作家の島津久逸が日向国伊東氏と組んで反旗を翻すと、重豊も東郷氏,祁答院氏,北原氏,菱刈氏らと共に反守護に転じた。しかし翌年、祁答院10代当主・祁答院重慶が守護方に内通し、島津忠廉に謀反の疑いがあるなど讒言に及ぶ。重豊は東郷氏と共に豊州方について、守護方となった祁答院氏に対抗、重豊は守護方の碇山城を攻略している。争乱はやがて、守護方に薩州家が加担するなど泥沼化の様相を呈し始める。これを憂いた忠廉が守護方との和睦を模索、同年5月、重豊は忠廉と共に守護島津氏と和睦するに至った。
 延徳2年(1490年)、重豊は嫡子・重聡に家督を譲り、文亀元年(1501年)に死去した。 

 本貫地である薩摩国入来院の他に、薩摩では永利名山田,草原,田崎,天辰(現・薩摩川内市),羽島(現・いちき串木野市)、大隅国では平松,森山,前原(現・姶良市)を領し、筑前国,筑後国にも飛び地を有していた。
 重聡は延徳2年(1490年)8月21日に家督を相続、これより守護・島津氏方として忠勤し、永正7年(1510年)に12代守護・島津忠治より隈之城を与えられている。享禄2年(1529年)には、薩州家の島津実久と戦い、百次,山田(現・薩摩川内市)以西を攻略した。
 このころ島津家は、守護職を与えられた島津貴久と、守護職復帰を企てる島津勝久、守護簒奪を企図する島津実久の三派に分かれるが、重聡は享禄3年(1530年)より島津忠良・貴久父子に従い軍功を為し、以後より終生変わらずこれに付き従う。また、享禄・天文の頃、忠良の所望により自身の娘(雪窓夫人)を貴久に嫁がせた。雪窓夫人は島津四兄弟といわれる貴久の男子のうち、義久,義弘,歳久の3名を生んでいる。
 天文5年(1536年)7月、度々の軍功により百次城を、天文6年(1537年)3月には郡山城を安堵される。その後、天文6年(1537年)1月の伊集院竹山城攻めなどにも参加し忠孝を為したが、天文8年(1539年)閏6月に貴久が市来平城を攻め落とすと、老体のために軍労を果たせないことを理由に暇を申し出て、嫡子・重朝に後事を託した。天文年間(1532~55年)に病死している。 

入来院重朝 入来院重嗣

 天文8年(1539年)、父と共に島津貴久による薩州家・島津実久方の市来攻めに参加、市来平城を攻め落としたが、父が老体を理由に暇を告げたために、以後は重朝が代わって自軍を率い、続く市来本城(市来鶴丸城)攻めにも参加し功を為した。また、同年8月には薩州家に奪われていた百次城を取り返し、翌9月には隈之城をも奪い返した。
 以後も変わらず島津氏宗家に付き従っていたが、天文13年(1544年)重朝が東郷氏,祁答院氏に与して叛乱するという噂が立つ。重朝は貴久へ弁明したが聞き入れられず、出仕停止を言い渡された上に、翌年の8月に郡山城を没収された。これを恨んだ重朝は貴久に反旗を翻した。
 没年は不明ながら7月16日に死去。

 

 天文15年(1546年)8月24日に初陣を果たしたが、家臣・種子田秀高の働きもあって軍功を為して島津貴久より褒美を賜った。しかし、父・重朝はこの前年に、貴久に対し反旗を翻しており、嫡子である重嗣も時期不明ながらそれに従った。
 永禄9年(1566年)1月、祁答院良重が自らの妻に殺害されると、祁答院氏の家老3名(大井実勝,高城重治,久富木重全)の申し出により、その全領地を重嗣が併せて領有することとなる。
 永禄12年(1569年)、菱刈氏が貴久の後を継いだ島津義久に降伏し大口城が落城すると、重嗣は同じく島津氏に叛いていた渋谷一族である東郷氏を説いた上で、同年12月28日、共に義久へ降伏した。その際、全領地を進上し降伏したが、本貫地である入来院清敷のみは安堵された。
 年度不明ながら12月2日に死去、定観寺に葬られた。 

入来院重豊〔14代当主〕

 天正2年(1574年)8月、重豊が主君・島津義久に対し謀反を企てているとの風聞が立った。重豊は驚き、拝領していた領地の山田,寄田,田崎,天辰を義久に献じ、起請文を提出したことで本領の入来院75町は安堵された。その後は天正4年(1576年)の日向国高原城攻めや、天正6年(1578年)の耳川の戦いに参加する。
 天正8年(1580年)の肥後国矢崎城攻めの際は病を得たため、家老の山口重秋,種子田秀高を名代に兵卒数百人を率いさせたが、重秋,秀高を含む50余人が討ち死にしている。天正9年(1581年)相良氏の水俣城攻めの際は脇大将を仰せ付かった。
 天正11年(1583年)、死去。子が無かったため、島津以久の次男・重時が養嗣子となり名跡を継いだ。