<桓武平氏>高望王系

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伊達政隆 伊達国隆

 岩谷堂伊達氏初代当主。初名は隆道。通称は長次郎。
 1590年(天正18年)、小田原征伐の参陣中に父・常隆が病死し、家督は豊臣秀吉の仲介もあり、佐竹義重の3子・貞隆が継いだため、岩城家より追放された。
 1607年(慶長12年)、母と共に初めて仙台に来て伊達政宗に謁見して厚遇された。常隆の父・親隆は政宗の祖父である伊達晴宗の子であり、政宗と常隆の祖母・久保姫(栽松院)は岩城家の出身であったことから、その縁もあったものと思われる。陸奥国栗原郡清水に知行を得る。
 1610年(慶長15年)、伊達姓を賜って一門に列し、政隆と名を改める。陸奥国江刺郡岩谷堂に5000余石を領して一家を興す。

 元和元年(1615年)8月、父・政隆の死去によりわずか2歳で家督・知行1000石を相続し、陸奥国栗原郡清水邑主となる。成長に及び石母田宗頼の女を正妻に迎え女子を授かるが、寛永16年(1639年)8月28日、妻が病により22歳で亡くなる。寛永19年(1642年)、領内で行われた寛永総検地が「二割出目」で行われたため、正保元年(1644年)8月、出目高を加増され、知行1200石となる。同年9月、主君・伊達忠宗の世子・光宗に仙台城書院で御礼御目見する。
 正保4年(1647年)5月、伊達忠宗の7男・藤松丸(後の宗規)を婿養子に迎える。慶安元年(1648年)9月11日、死去。享年35。家督は藤松丸が相続した。
 万治2年(1659年)宗規が江刺郡岩谷堂に転封となり、代々治めたため岩谷堂伊達家と呼ばれる。 

伊達宗規 伊達村隆

 正保元年(1643年)、藩主・伊達忠宗の7男として生まれる。母は側室三田村氏で、同母兄に田村宗良がいる。幼名を藤松丸と名付けられた。
 正保4年(1647年)5月、一門の陸奥国栗原郡清水邑主・伊達国隆の婿養子となる。慶安元年(1648年)9月、養父・国隆の死去により家督と知行1,200石を相続する。幼いため引き続き仙台城中で養育された。承応2年(1653年)230石の加増を受ける。承応3年(1654年)2月、父・忠宗の加冠で元服、一文字拝領して宗規と名乗る。万治2年(1659年)、新藩主となった兄・綱宗より江刺郡岩谷堂に加増転封され、知行3,000石となる。これ以降、代々岩谷堂を本拠としたため岩谷堂伊達氏と称される。天和3年(1683年)新田を賜り知行4,230石となる。
 貞享2年(1685年)2月10日死去。享年43。家督は嫡男の藤徳(村隆)が相続した。

 寛文3年(1663年)、岩谷堂伊達氏第3代当主・伊達宗規の子として生まれる。幼名は藤徳。寛文13年(1673年)に元服し、陸奥仙台藩主の伊達綱基(のちの綱村)より一文字拝領して数馬基貞と名乗る。
 貞享2年(1685年)2月、父・宗規の死去により家督と知行4,230石を相続し、岩谷堂邑主となる。貞享3年(1686年)、涌谷伊達宗元,村元親子と共同で、専制政治を行う藩主・綱村に諫言書を提出し、綱村の側近の古内重直を罷免させる。貞享4年(1687年)、綱村の妹・清姫と結婚する。貞享7年(1690年)、新田を加増され知行5,015石となる。貞享9年(1692年)1月、再び綱村より一文字拝領し、岩城氏代々の通字である「隆」を用いるよう命を受け、村隆と名乗る。
 元禄6年(1693年)、再び綱村に対して、一門7家8名(石川宗恒,伊達宗氏,伊達宗元,伊達村隆,伊達宗親,白川宗広,三沢宗直,伊達村元)連名で諫言書を提出した。元禄16年(1703年)、綱村が隠居することとなり、9月、新藩主・吉村の家督相続御礼言上の際に、江戸城で将軍・徳川綱吉に拝謁する。
 正徳5年(1715年)、出羽亀田藩主・岩城秀隆より、仙台藩に岩城常隆の曾孫である村隆の子を養子にと求められたが、村隆の実子・辰之丞は早世しており、代わりに、藩主・吉村の実弟・宮床伊達村興の次男・久之助(岩城隆韶)の成長を待って、村隆の養子とした上で岩城家に養子入りする約束となる。しかし、秀隆が幕府より駿府加番を命じられ、仮養子が必要になったため、岩城家の希望で、幕府に久之助を秀隆の仮養子として届けた。享保14年(1729年)8月27日死去。享年67。 

伊達村望 伊達義隆

 元禄10年(1697年)、一門三沢氏初代当主・三沢宗直の次男として生まれる。幼名は万次郎。岩谷堂伊達氏第4代当主・伊達村隆の養子となる。宝永7年(1710年)5月、藩主・伊達吉村の加冠で元服し、一文字拝領して村望と名乗る。
 寛保元年(1741年)5月に長男・村香が早世し、8月に次男・村壽を継嗣とする。延享2年(1745年)、村壽が村望の甥の亀田藩主・岩城隆韶の末期養子となって家督を相続したため、3男の登(村富)を継嗣とする。
 宝暦年間、医師で儒学者の河島潤安を招いて賓師の礼を取った。潤安の門下からは、志村五城,東嶼兄弟など、多数の人材を輩出することとなる。明和2年(1765年)3月4日死去。享年69。家督は村富が相続した。 

 文化9年(1812年)、亘理伊達氏第11代当主・伊達宗賀の子として生まれる。
 文政6年(1823年)7月、岩谷堂伊達氏第9代当主・宗嵩が死去し、その遺跡を相続する。仙台藩主・伊達斉義から偏諱を賜り、岩城氏の通字「隆」とにより、右近義隆と名乗った。
 天保12年(1841年)、家臣の片岡泰一郎に郷校・比賢館を設立させる。
 文久2年(1862年)8月20日死去。享年51。継嗣がなく、実兄で亘理伊達氏第12代当主である伊達宗恒の3男・邦規が遺跡を相続した。 

岩崎邦規

 享和3年(1833年)、亘理伊達氏第12代当主・伊達宗恒の3男として生まれる。
 文久2年(1862年)8月、叔父で岩谷堂伊達氏第10代当主の伊達義隆の死去により家督を相続し、岩谷堂邑主となる。藩主・慶邦の偏諱を受け伊達数馬邦規と名乗った。
 慶応4年(1868年)、戊辰戦争の際に藩主一門として出陣するも仙台本藩が敗戦で知行を4分の1に削減されたことにより、代々領した岩谷堂領を没収される。
 明治2年(1872年)、先祖の姓である岩城氏に復姓した。明治9年(1876年)1月2日死去。享年44。