今川氏親没後、今川氏の力が弱ったのを察した松平清康(家康の祖父)は、享禄3(1530)年、東三河の攻略に乗り出し、吉田城をはじめとして、 牛久保・田原・西郷・伊奈・野田・作手・田峯の各地を従えた。 さらに、宇利熊谷氏をその麾下に治めようとしたが、従わなかったため、清康は松平一門を率いて、野田城主・菅沼定則を案内として 宇利城攻撃を始めた。清康は富賀寺の裏山に陣を置き、宇利城の大手口だけでなく搦手方面からも猛攻を加えた。大手口には松平右京亮親盛(清康の叔父),松平内膳正信定(親盛の弟)が、搦手には清康の旗本が攻撃にあたり、作手の亀山城主・奥平貞勝が先導した。熾烈を極めた攻防となり、清康は苦戦したが、城内の松平方に通じた岩瀬庄右衛門が城に火をつけたので、城主・実長は裏山伝いに落ち延びていった。嫡子・直安は北設楽郡豊根村に移って豊根熊谷氏となり、さらに次男・直近は遠江浜名郡に住してのちに今川義元に仕え、3男・正直は三河額田郡高力に移住して高力氏を名乗り、のちに徳川氏に仕えた。この戦いで、城方370名,松平方90名が死傷し、大手の激戦では松平右京亮親盛が討死した。
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