| H102:平 良望 | 平 高望 ― 平 良望 ― 久下直光 | H186:久下直光 | ● |

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| 久下直光 | 久下時重 |
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久下氏は武蔵国大里郡久下郷を領する武士で、熊谷直実の母の姉妹を妻にしていた関係から、孤児となった直実を育てて隣の熊谷郷の地を与えた。後に直光の代官として京に上った直実は直光の家人扱いに耐えられず、平知盛に仕えてしまう。熊谷を奪われた形となった直光と直実は、以後激しい所領争いをした。 |
久下氏の家紋「一番」という文字であるが、その由来が『太平記』に記されている。足利尊氏が丹波篠村八幡宮で挙兵したとき、久下時重が250騎を率いて真っ先にはせ参じた。その旗印に「一番」とあるのを不審におもった尊氏がその由来を尋ねた。高師直が、「源頼朝が土肥の杉山で挙兵した際、久下重光が一番にはせ参じた。頼朝は、もし天下を取ったならば一番に恩賞を与えよう、と「一番」という文字を書いて与え、やがてそれを家の紋としたのである」と答えた。尊氏は、それは吉例であると喜んだという。 |
| 久下政光 | |
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明応2年(1496年)、畠山氏の内紛に際して将軍義材は一方の政長を援け、河内国へ親征した。この戦に、久下政光は将軍に従って河内へ出陣した。ところが、義材の留守中に幕府管領で丹波国守護でもある細川政元がクーデターを決行した。政元は新将軍として義澄を擁立し、義材と政長らを攻めるために大軍を河内に進軍させた。思いがけないクーデタに将軍方は大敗し、政長は自害、義材は降参、政光はやっとのことで逃げることができた。しかし、丹波守護,守護代はもとより、近隣の国人らもすべて敵方となって、まったく孤立化した政光は、以後16年間におよぶ流浪の身となった。 |