<桓武平氏>高望王系

H102:平 良望  平 高望 ― 平 良望 ― 久下直光 H186:久下直光


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久下直光 久下時重

 久下氏は武蔵国大里郡久下郷を領する武士で、熊谷直実の母の姉妹を妻にしていた関係から、孤児となった直実を育てて隣の熊谷郷の地を与えた。後に直光の代官として京に上った直実は直光の家人扱いに耐えられず、平知盛に仕えてしまう。熊谷を奪われた形となった直光と直実は、以後激しい所領争いをした。
 治承4年(1180年)の源頼朝旗揚げに際しては、直光・重光父子は最初大庭景親に属したが、のちに頼朝に従い、一ノ谷の合戦などに戦功があって、頼朝より伊豆国玉川荘・三河国篠田村・丹波国栗作郷などを与えられたという。直実は源頼朝の傘下に加わったことにより、寿永元年(1182年)5月に直光は頼朝から熊谷郷の押領停止を命じられ、熊谷直実が頼朝の御家人として熊谷郷を領することとなった。
 直光はこれで収まらず、合戦後の建久3年(1192年)に熊谷・久下両郷の境相論の形で両者の争いが再び発生した。同年11月、直光と直実は頼朝の御前で直接対決することになるが、口下手な直実は上手く答弁することができず、梶原景時が直光に加担していると憤慨して出家してしまった。もっとも、知盛・頼朝に仕える以前の直実は直光の郎党扱いを受け、直実が自分の娘を義理の伯父である直光に側室として進上している(世代的には祖父と孫の世代差の夫婦になる)こと、熊谷郷も元は直光から預けられていた土地と考えられており、直光に比べて直実の立場は不利なものであったと考えられている。
 承久の乱(1221年)に際しては、久下三郎が幕府軍の一員として京都へ上った。戦後、彼は武蔵へは帰らず、所領の丹波国栗作郷金屋に留まった。以後、久下氏は丹波に住して国人領主に成長していく。  

 久下氏の家紋「一番」という文字であるが、その由来が『太平記』に記されている。足利尊氏が丹波篠村八幡宮で挙兵したとき、久下時重が250騎を率いて真っ先にはせ参じた。その旗印に「一番」とあるのを不審におもった尊氏がその由来を尋ねた。高師直が、「源頼朝が土肥の杉山で挙兵した際、久下重光が一番にはせ参じた。頼朝は、もし天下を取ったならば一番に恩賞を与えよう、と「一番」という文字を書いて与え、やがてそれを家の紋としたのである」と答えた。尊氏は、それは吉例であると喜んだという。
 南北朝の動乱期には、時重をはじめ久下一族は足利尊氏に属して各地に転戦した。とくに建武3年(1336年)、尊氏が新田義貞らに敗れて丹波に逃げたとき、および観応2年(1351年)、尊氏が弟・直義と争い孤立して子・義詮と丹波に逃れたとき、時重は尊氏をよく防護した。尊氏が義詮を留めて播磨に赴いた後は、義詮を井原庄岩屋に護ってその難をしのいだ。
 尊氏父子の危難を救った功は大きく、時重はもちろんのこと、その子・貞重,頼直,幸興ら久下一族は丹波を中心に武蔵・飛騨等に十数か所におよぶ所領を与えられて、丹波国内では荻野氏とならぶ最有力の武士となった。そして、時重・貞重父子の代が久下氏の最盛期でもあった。
 明徳の乱(1392年)には、当時の丹波守護・山名氏清の守護代・小林修理亮に属して、丹波国人らとともに将軍方の軍勢と対陣した。しかし、丹波軍が将軍方に寝返ったことで敗戦をまぬがれ、重元は将軍・義満から所領を安堵されている。その後も代々の将軍に所領を安堵されたが、戦国時代に至って全く状況は変化した。

久下政光

 明応2年(1496年)、畠山氏の内紛に際して将軍義材は一方の政長を援け、河内国へ親征した。この戦に、久下政光は将軍に従って河内へ出陣した。ところが、義材の留守中に幕府管領で丹波国守護でもある細川政元がクーデターを決行した。政元は新将軍として義澄を擁立し、義材と政長らを攻めるために大軍を河内に進軍させた。思いがけないクーデタに将軍方は大敗し、政長は自害、義材は降参、政光はやっとのことで逃げることができた。しかし、丹波守護,守護代はもとより、近隣の国人らもすべて敵方となって、まったく孤立化した政光は、以後16年間におよぶ流浪の身となった。
 政光が流浪中に、久下氏の所領は遠近とも全く失われてしまった。その後、大内義興に奉じられた義材が再び将軍に返り咲き、政光も愁眉をひらくことになった。しかし、所領は波多野氏や赤井氏に押領され、領内の名主や荘官も他家の被官となってしまっていた。これに対し幕府は、返却を命じたらしいが、実行された様子はなく、幕府も重ねて返却を命じたが、まったく無視されたらしい。
 その後、織田信長の丹波攻略に際して、かつて強大を誇った久下氏も窮乏のまま、赤井氏らとともに、明智光秀軍に押つぶされてしまった。