<桓武平氏>高望王系

H180:北条時房  平 高望 ― 平 良望 ― 北条時方 ― 北条時房 ― 大仏朝直 H182:大仏朝直

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大仏朝直 大仏宗宣

 時房の4男であったが、長兄・時盛は佐介流北条氏を創設し、次兄・時村と三兄・資時は突然出家したため、時房の嫡男に位置づけられて次々と出世する。
 正室は伊賀光宗の娘だったが、貞応3年(1224年)6月の伊賀氏の変で光宗が流罪となり、嘉禄2年(1226年)2月、執権・北条泰時の娘を新たに室に迎えるよう父母から度々勧められるが、21歳で無位無官の朝直は愛妻との離別を拒み、泰時の娘との結婚を固辞し続けた。翌月になっても、朝直はなおも執権・泰時、連署である父・時房の意向に逆らい続け、本妻との離別を哀しむあまり出家の支度まで始めるという騒動になっている。その後も抵抗を続けたと見られるが、5年後の寛喜3年(1231年)4月、朝直の正室である泰時の娘が男子を出産したことが『吾妻鏡』に記されていることから、最終的に朝直は泰時と時房の圧力に屈したと見られる。なお、この都の公家にまで届いた北条一族の婚姻騒ぎは幕府編纂書の『吾妻鏡』には記されていない。
 北条泰時から北条政村までの歴代執権に長老格として補佐し続けたが、寄合衆にはついに任じられなかった。文永元年(1264年)5月3日、59歳で死去。 

 大仏家の総領として、弟や子らと共に幕府の要職を歴任した。元服時に得宗家当主の北条時宗より一字を賜り、宗宣と名乗る。
 弘安9年(1286年)に引付衆、永仁元年(1293年)に越訴頭人となり、さらに引付から改編された執奏の一員に選ばれる。永仁3年(1295年)に執奏が廃止され引付が復活するとそこから外れるが、永仁4年(1296年)に四番引付頭人となり、さらに寄合衆ともなる。永仁5年(1297年)から六波羅探題南方に就任し、乾元元年(1302年)まで在京。嘉元3年(1305年)の嘉元の乱においては得宗の北条貞時の命令で北条宗方を討った。同年7月22日、その戦功により連署となる。応長元年(1311年)9月22日、執権であった北条師時の死去により、10月3日に連署から昇格して第11代執権に就任した。しかし、幕政の実権は内管領・長崎円喜や得宗外戚の安達時顕に握られ、政治をみることができなかった。正和元年(1312年)5月29日、執権職を北条煕時に譲り出家した。同年6月12日に死去。享年54。
 『新後撰和歌集』『玉葉和歌集』『続後千載和歌集』などに23首の歌が収録されている。

大仏維貞 大仏家時

 生誕年に関しては異説もあるが、元服時に得宗の北条貞時より偏諱を受けて貞宗と名乗っていることから、その辺りの時期とみて間違いはないと考えられる。時期や理由は不明だが、のちに維貞に改名した。
 嘉元2年(1304年)7月10日に引付衆に任じられる。以後は小侍奉行,評定衆,引付頭と順調に出世を重ねるが、正和2年(1313年)7月26日には引付頭人を辞任している。正和4年(1315年)に六波羅探題南方に任じられて西国・畿内の悪党の取り締まりに尽力した。しかし、長期の在京を嫌ったのか元応3年(1321年)7月3日に突然鎌倉に下向している。だが当時の六波羅探題は北方が不在で探題は維貞のみであり、得宗・北条高時が「御気色不快」だったため5日に再び上洛している。元亨4年(1324年)になってようやく探題職の辞任が認められ、鎌倉への帰還を命じられたが、この時に後任の北条貞将への引き継ぎ、さらに8月の維貞鎌倉下向による空白の合間をぬって後醍醐天皇一派が9月に正中の変を引き起こしている。そして変後の10月30日には評定衆に返り咲いた。
 正中3年(1326年)4月24日に連署となり、第16代執権の北条守時を補佐した。しかし、これは同年の嘉暦の騒動によるものから内管領として幕政を主導していた長崎高資らによる融和策の一環として維貞が利用されたものとされる。そして、ほどなくして病に倒れ、出家してから嘉暦2年(1327年)9月7日に死去した。享年43。
 和歌の才能に優れた文化人であり、『玉葉和歌集』に維貞の作品11首が遺されている。

 嘉暦2年9月7日(1327年9月22日)に維貞が死去し、跡を継いだ兄・高宣もその翌年の嘉暦3年(1328年)4月に亡くなったため、幼少にしてその跡を継いだ。
 元徳元年(1329年)11月11日、評定衆となる。その後、後醍醐天皇らの討幕運動(元弘の乱)が起こると、二人の弟とともに、家時自らが大将の一人として幕府軍を率い、河内金剛山千早城に立て籠もっていた楠木正成を攻めていたが、足利高氏(のちの尊氏)の離反や六波羅探題の滅亡もあって軍は四散。家時は奈良に逃れた貞宗や高直とは分かれて鎌倉へ赴いたが、正慶2年/元弘3年(1333年)5月22日、新田義貞に攻められて、得宗家当主の北条高時らとともに自害した(東勝寺合戦)。享年22。
 弟の貞宗と高直は、兄・家時らの死を知ると6月5日には縁戚関係にあった足利高氏に降伏。しかし、建武元年(1334年)3月9日に北条家の残党らによる鎌倉侵攻事件などがあったこともあり、高氏の助命嘆願も叶わず両者とも処刑され、大仏流北条氏はここに断絶した。 

大仏貞宗 大仏高直

 鎌倉幕府の連署を務めた北条維貞の3男として生まれた。父が初めに名乗っていたのと同じ貞宗を名乗る。
 後醍醐天皇らの討幕運動(元弘の乱)が起こると、大仏家当主であった家時や弟の高直とともに幕府軍を率いて河内金剛山千早城に立て籠もっていた楠木正成を攻めていたが、足利高氏(のちの尊氏)の離反や六波羅探題の滅亡もあって軍は四散し、家時は鎌倉へ、貞宗と高直は5月10日に残った軍勢を率いて奈良に逃れた。しかし、5月22日に新田義貞の鎌倉攻めにより高時や家時らが自害した(東勝寺合戦)ことを知ると、抗戦を諦めて6月5日に剃髪した上で高氏に降伏し、京都に幽閉された。
 高氏自身は北条家と縁戚関係にあったことから高直の助命を嘆願していたが、建武元年(1334年)3月9日に北条家の残党らによる鎌倉侵攻事件などがあったことから北条一族の徹底的な殲滅が強められることになり、9月9日に弟の高直や阿曾治時,長崎高貞らと共に京都阿弥陀峰で斬首に処された。
 処刑の日の9月9日は『太平記』より参考にしたものであり、他の史料では3月21日(『梅松論』『蓮花寺過去帳』),4月(『保暦間記』),5月(『系図』)など時期が一致しない。

 鎌倉幕府の連署を務めた北条維貞の子として生まれる。嘉暦2年(1327年)9月7日の維貞の死後、家督を継いだ長兄の北条高宣(翌年早世)が得宗・第14代執権の北条高時から偏諱を賜っていることから、弟である高直も同様に「高」の字を受けたものとみられる。
 後醍醐天皇らの討幕運動(元弘の乱)が起こると、幕府軍の大将の一人として各地を転戦した。鎌倉幕府滅亡頃には大仏家当主であった次兄の家時や三兄の貞宗とともに幕府軍を率いて河内金剛山千早城に立て籠もっていた楠木正成を攻めていたが、足利高氏(のちの尊氏)の離反や六波羅探題の滅亡もあって軍は四散し、家時は鎌倉へ、高直は5月10日に残った軍勢を率いて奈良に逃れた。しかし、5月22日に新田義貞の鎌倉攻めにより高時や家時らが自害した(東勝寺合戦)ことを知ると、抗戦を諦めて6月5日に剃髪した上で高氏に降伏し、京都に幽閉された。
 高氏自身は北条家と縁戚関係にあったことから高直の助命を嘆願していたが、建武元年(1334年)3月9日に北条家の残党らによる鎌倉侵攻事件などがあったことから北条一族の徹底的な殲滅が強められることになり、9月9日に兄の貞宗や阿曾治時、長崎高貞らと共に京都阿弥陀峰で斬首に処された。

大仏貞宣 大仏貞直

 父は大仏流北条宣時とされるが、北条政忠とする系図もある。元服時に得宗家当主・北条貞時より偏諱を受けて貞宣と名乗る。もう一方の「宣」の字は宣時に由来すると考えられる。
 正宗寺本「北条系図」,佐野本「北条系図」,前田育徳会所収の「平氏系図」による記述と「公衡公記」における正和4年(1315年)の鎌倉大火の記事で「丹波守貞宣の屋敷が類焼した」と書かれていることから、官途は丹波守であったと推定される。
 政治的な活動としては、正和2年(1313年)、甥の北条維貞と交替で引付頭人に就任、死去する元応2年(1320年)5月まで務めたとされる。
 『続千戴和歌集』『続後拾遺和歌集』に、それぞれ一首歌が採録されている。

 得宗・北条貞時より偏諱を受けて貞直と名乗る。引付衆,引付頭人など要職を歴任して幕政に参与した。
 元徳3年/元弘元年(1331年)9月に貞直は江馬越前入道(江馬時見),金沢貞冬,足利高氏(のちの尊氏)らと共に大将軍として上洛した。9月26日には貞直と共に上洛軍を率いて笠置に向けて進発して2日後に攻め落とした(笠置山の戦い)。10月の赤坂城の戦いに勝利して戦功を挙げたことから、遠江・佐渡などの守護職を与えられた。
 正慶2年/元弘3年(1333年)5月、新田義貞が軍勢を率いて鎌倉に攻め込んでくると極楽寺口防衛の大将としてその迎撃に務め、新田軍の主将の一人である大館宗氏と戦い1度は突破を許したが態勢を立て直して宗氏を討ち取り堅守していた。しかし力尽きて5月21日深夜に攻防戦の要衝である霊山山から撤退するが、この時に残っていた兵力は300騎ほどだった。そして、5月22日に宗氏に代わって采配を取った脇屋義助(義貞の弟)の攻撃の前に遂に敗れ、弟の宣政や子の顕秀らと共に戦死した。
 武将としての能力だけでなく、和歌にも優れた教養人であったと伝わる。