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平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。桑名,富津二郎,鷲尾,鷲尾二郎を称す。丹波国に住する。 もと美濃国の在地領主で、のち上洛し滝口武者となった。治承・寿永の乱を経て、頼朝の御家人に列した。文治3年(1187年4月)、国衙の下知に背き、年貢を対捍したとして頼朝より下文を下された。建久9年(1198年)、左衛門少尉と見える。
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保安4年(1123年)頃に誕生した忠盛の次男・家盛の乳母父となる。 保延元年(1135年)8月、平忠盛の海賊討伐の賞により、右兵衛尉に叙任。天養の頃、院領(最勝寺領)の信濃国小河荘に下司の清原家兼からの譲り状と文書があると称して介入しようとし、鳥羽院庁がそれを禁ずる院庁下文を天養2年(1145年)7月に出す(鳥羽院庁下文)など、院領を中心とした平氏の勢力拡大の役割を担っている。 久安5年(1149年)3月、家盛が鳥羽法皇の熊野参詣に加わった道中で病により急逝すると、駆けつけた維綱は哀しみのあまりその場で出家した。子の良平(桑名九郎)の子で、維綱の孫にあたる桑名恒平は早くから鎌倉の源頼朝傘下に入り、奥州合戦に参陣し、戦功を残して備後国を賜り、大和氏,三重氏,備後杉原氏など祖となったという。
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