<桓武平氏>高望王系

H103:平 維衡  平 高望 ― 平 良望 ― 平 維衡 ― 中根正持 H118:中根正持

リンク
中根正持 中根正照

 中根氏祖とされ、平清盛の叔父・右馬助忠正の7男とされる。忠正は保元の乱(1156年)で崇徳上皇方に従い敗戦後、子息等と共に六条河原において斬首された。七郎正持(2才)は乱後、母に倶われて碧海中根村に遁れて成人に成るまで額田郡箱柳村に住し、世話になった中根村の中根を姓にした。
 以来、松平清康・広忠に仕えた忠良まで14代400年に亘り、堂根筋六郷を治めた。

 永禄11年(1568年)、徳川家康が遠江に侵攻して二俣城を奪い、中根正照を城主、青木貞治,松平康安らを部将として入城させるが、元亀3年(1572年)10月、武田信玄に攻められ奮戦空しく降伏・開城し、芦田信守・信蕃父子が入城する。中根・青木らは開城後、浜松に帰るが、それを知らず家康は救援に向かい武田軍と激突し惨敗して浜松に敗走した。中根・青木は主君を空しく帰らしめたことを深く恥じ、二俣城開城の恥辱を雪がんとし、三方ヶ原の戦いで奮戦して同年12月22日に討死を遂げた。
中根信照 中根正盛

 尾張熱田の商家の娘を織田信秀が強引に拉致、妾にして産ませた子と伝わる。この生母はのちに水野信元の側室となったともいわれ、信長の弟だが、生母・中根氏の縁で二俣城主・中根忠貞の養子となり、中根姓を称した。ちなみに生母の中根氏は『尾張誌』に「尾張第一の美麗たる」と記録されている美女であった。
 天正9年(1581年)2月の京都御馬揃えの際には御連枝衆として、弟である「源五(長益)」、「又十郎(長利)」、さらには甥の「勘七郎(織田信弌:本姓は大橋氏)」よりも後に「中根」として参加している。天正10年(1582年)に信長が死去した後は、信長の次男・織田信雄の家臣となった。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参戦し、奥城を守ったが、羽柴秀吉軍の攻勢に敗れて落城、捕虜となったが、信長の弟であるということから一命は助けられた。戦後は再び信雄に仕えたとされる。
 信雄からは一門衆として重用され、沓掛城主として2,000貫文の高禄を与えられている。文禄3年(1594年)7月7日、熱田神宮に長刀を寄進した記録がある。以降の動向は不明。

 徳川秀忠の小姓に召し出され、大番を経て、徳川家光時代に、小納戸を拝命し、やがて側衆(後の側用人)に進み、徳川家綱時代に、大目付として諸国の監視を務める。
 寛永10年(1633年)以来、家光の側近たちは老中や六人衆(後の若年寄)となって幕府の日常的政務を処理するようになる。
 寛永12年(1635年)、家光は中根を御側に任じて幕閣との取次役とし、正規の監察機構とは別に監察権限を与えて幕藩制社会全般の動向を把握させ、中根を評定所へ出座させることにより幕府行政を監察させ、家光への情報チャンネルとした。
 寛永15年(1638年)、堀田正盛が老中から家光の側衆に回り、中根正盛と2人で家光のブレーンとなる。土井利勝,酒井忠勝の門閥譜代大名は大老に棚上げされ、彼らの子2人も若年寄から罷免される。ここに側衆(堀田・中根)と老中(松平信綱・阿部忠秋)の家光体制が成立した。 この年、中根は従五位下壱岐守に叙任し、寛永17年(1640年)には5,000石を有することになる。
 家光に深く寵愛され「比類なき出頭」、「国家の安否みな正盛について達す」と称され、「老臣といへども中根に向ては手を下して応対する程」の権勢を誇ったという。諸大名・旗本と将軍との取次ぎ、その役目から各地の大名や幕臣の情報が集まり、諸国の様子の監視に務め、与力20余騎を手足のように使った。また、たいへんな能書家でもあったという。
 慶安4年(1651年)に由井正雪の「慶安の変」が起きた。これは、正雪が歪んだ幕政への諫言、浪人救済が目的の謀反行動といわれた。幕府はその背後(武功派勢力)と正雪との関係を警戒した。中根は配下を諸方に派遣して、特に紀州の動きを詳細に調べさせた。これを機会に松平信綱と中根は、武功派(幕府批判権力者)とされる紀州藩主・徳川頼宣を幕政批判首謀者とし失脚させ、武功派勢力の崩壊、一掃を成功させた。
 最後まで自分の言ったことを貫き通す人間だったとも言われ、時には家光の意見でさえ、中根の考えに反していれば、決して自分の意思を曲げることはなかったと伝えられている。
 中根は配下の廻国者で組織している隠密機関を幕閣という政府組織の一角に機関として組織化した。島原の乱,慶安の変の際に中根が、その動きを詳細に調べさせた。 島原の乱の際には、甲賀忍者の一隊が一揆軍の立てこもった原城内に潜入し一揆軍の兵糧が残り少ないことを確認したという記録がある。老中・諸大名の監察を任とし、配下の隠密機関の元締めとして島原の乱,慶安の変に関して崩壊させる勲功を賞され、中根の公儀隠密元締説がうまれた。

中根忠容 中根正剛(長十郎)
 天明元年(1781年)、岡崎藩2代藩主・本多忠典から養嗣子の3代藩主・本多忠顕の代に家老を務める。忠顕がまだ若年のため、服部平兵衛,江戸の両替商の三谷喜三郎らと藩政を主導した。32万両にまで膨れ上がった藩の借金を何とかするため、財政改革に着手する。その結果、寛政9年(1797年)までに改革の効果が現れて24万両にまで借金を減らすことができた。ところが、成長した忠顕が反対派と結託して改革派の排斥に乗り出し、寛政8年(1796年)に片腕の服部平兵衛は失脚し、寛政11年(1799年)に忠容自身も失脚させられた。家督は忠素,忠祐,忠易と継ぎ明治維新に至る。 

 1838年(天保9年)より一橋家に仕え、慶喜の時代には側用人兼番頭(腹心)として平岡円四郎(一橋家用人、家老並)らと共に重用された。
 中根は平岡と共に慶喜に開国・公武合体を説くが、受け入れられなかった。1863年12月3日(文久3年10月23日)、将軍後見職一橋慶喜の発駕を3日後に控えたこの日、攘夷決行に踏み切れぬ一橋慶喜のために、尊攘派(慶喜が上洛の後、開国が国是になると危ぶむ者)に江戸雉子橋門外で暗殺された。中根は慶喜の随行の一員であった。
 慶喜は当時、攘夷論者とみられたが、攘夷が進まぬのは、側近に開国派の平岡の仕業だと思われていた。平岡は「近日有志の士に斬害せらるべし」とも噂されていた。平岡ではなく中根に災いが及んだのは、攘夷浪士が平岡に面会・詰問後、中根に責任転嫁したためとされる。中根は浪士の面会・詰問に応じなかった。平岡は水戸藩士に詰め寄られたことがあり、中根を殺したのは水戸藩浪士だったという説がある。慶喜は、中根長十郎,平岡円四郎,原市之進など有能な家臣を非業のうちに失うことになる。