H002:平 時信 | 平 高棟 ― 平 時信 ― 平 信範 | H003:平 信範 |
リンク | H004 |
平 信範 | 平 信基 |
---|---|
日記『兵範記』の作者として著名である。また、国宝平家納経の筆者のうちの一人と目される。 |
『兵範記』保元3年2月9日条に信範の娘(藤原脩範室か?)の婚礼の際に婿を迎えた「進士」「勾当」が同母兄弟である信基・信季兄弟と推定されており、進士=文章生であったと見られている。応保3年(1163年)に兵部少輔であったことが『山槐記』同年1月14日条から判明している。 |
平 信季 | 平 親輔 |
保元2年(1157年)、近衛基実政所勾当に任ぜられ、永暦元年(1160年)に六位蔵人となり、翌年左兵衛少尉を兼ねる。応保3年(1163年)、従五位下に叙される。永万2年(1166年)、父・信範が左京権大夫を辞任する代わりに刑部権大輔に任ぜられる。仁安4年(1169年)に従五位上に叙される。承安2年6月12日(1172年)に少納言として初出。承安4年(1174年)に九条兼実の家司に任ぜられ、同年長門権守を兼ねる。 |
安元3年(1177年)、左近衛将監に任官し後白河院院司となる。寿永2年(1183年)、正月に安徳天皇の六位蔵人に補せられるが、同年7月の平家の都落ちには同行せず、後鳥羽天皇践祚後の9月に従五位下に叙爵した。元暦元年(1184年)、兵部少輔に任ぜられると、文治3年(1187年)従五位上に昇叙され、建久元年(1190年)には兵部少輔を辞する代わりに正五位下に叙せられている。
|
平 仲兼 | 平 行高 |
正嘉元年(1257年)従五位下に叙爵し、正元元年(1259年)民部大輔に任官する。文応2年(1261年)従五位上、弘長3年(1263年)正五位下と昇進したのち、勘解由次官を経て、建治3年(1277年)左衛門権佐(検非違使佐)に任ぜられる。父の時仲が諸大夫(正四位下)止まりであったため、検非違使庁の官人に軽侮されたという。また、この頃、近衛家・鷹司家の家司も務めている。弘安3年(1280年)後宇多天皇の五位蔵人に補せられた。 |
永仁7年(1299年)従五位下に叙爵。徳治2年(1307年)右兵衛権佐に任ぜられると、のち衛門権佐(検非違使佐)と武官を歴任し、徳治3年(1308年)従五位上、延慶2年(1309年)正五位下と昇進した。また、正和4年(1315年)、持明院統の花園天皇の五位蔵人に補せられている。 |