<桓武平氏>高棟王系

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平 信範 平 信基

 日記『兵範記』の作者として著名である。また、国宝平家納経の筆者のうちの一人と目される。
 保安2年(1121年)に文章生となり、以後、蔵人,修理亮,左兵衛尉,左衛門少尉,甲斐権守などを歴任する。また、摂関家(近衛家)の家司として藤原忠実から近衛基通の4代にわたって仕えた。特に藤原忠通からの信任が厚く、嫡男・基実の乳母を信範の正室が務め、また、基実が従三位に任ぜられて政所を設置した際の唯一の家司は信範であり、自動的に政所別当を兼ねた。このため、左大臣・藤原頼長から圧迫を受け、信範が任じられていた摂家の荘園の預所を解任されている(当時、頼長が藤氏長者であったため)。
 保元の乱後には藤原忠通の政所別当も兼務して、藤氏長者に復帰した忠通の補佐をしている。正五位下・少納言の官にあった保元3年(1158年)、関白であった忠通の前を横切った藤原信頼がその非礼によって忠通の下人に車を破壊されるという事件が起こり、信頼の訴えを受けた後白河上皇は、忠通の家司であった信範と藤原邦綱の両名を除籍、謹慎処分としている。
 その後、永暦元年(1160年)に再度蔵人に任じ、仁安3年(1168年)には正四位下・蔵人頭・権右中弁に進むが、翌嘉応元年(1169年)、延暦寺大衆の強訴によって院近臣の藤原成親が配流される事件が勃発する(嘉応の強訴)。この事件に対処していた信範は、甥の平時忠共々法皇から責任を問われることとなり、「奏事不実(奏上に事実でない点があった)」の罪により解官の上、備後国へ配流されるという憂き目を見ている。
しかし、翌嘉応2年(1170年)には召還され本位に復し、同3年(1171年)に従三位となって公卿に列する。承安3年(1173年)に兵部卿、安元2年(1176年)に正三位と進み、これを極位極官として翌3年(1177年)に出家。その後、子の信基や甥の時忠は治承・寿永の乱の中で平家一門と共に西走、敗戦の末捕えられ配流されるという波乱の生涯を送っているが、既に引退していた信範はこれとは別に静かな余生を送ったとされる。また、近衛基実の遺児である基通の庇護にも力を尽くし、基通の叔父である九条兼実に子・信季を仕えさせて兼実と基通の橋渡し役をさせている。兼実の日記『玉葉』には信範と兼実の親交の記事が登場する(承安元年5月末日・治承3年12月15・16日条他)。更に基通の側室となった末娘は近衛道経を生んでいる。
 その日記『兵範記』は、平安末期の政情や朝廷の儀典を克明に記録した第一級の史料として名高い。また、子孫は後世、西洞院家,平松家,交野家など数家に分かれて、それぞれ繁栄している。 

 『兵範記』保元3年2月9日条に信範の娘(藤原脩範室か?)の婚礼の際に婿を迎えた「進士」「勾当」が同母兄弟である信基・信季兄弟と推定されており、進士=文章生であったと見られている。応保3年(1163年)に兵部少輔であったことが『山槐記』同年1月14日条から判明している。
 平清盛の正室・平時子と従兄弟であったことから、平家一門の一員として立身。また、仁安3年(1168年)の院判官代就任以後は後白河院の院近臣としても活躍し、左衛門佐,左馬権頭,修理権大夫を歴任し、寿永2年(1183年)に内蔵頭に至るが、同年源義仲の上京を受けた一門都落ちに随い、西海へ下向した。この時、姉妹が側室となっていた摂政・近衛基通に対して平家と行動を共にするよう再三の説得を試みるが、最終的に断念し独り一門の後を追ったとされる。
 一門が壊滅した元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いにおいて捕虜となり、都へと連行される。この際同じく捕虜となった平宗盛,平時忠らが都大路を引き廻されたのに対し、信基は合戦で負傷していたために辛うじてこの屈辱を免れたという。
 その後審議を経て、備後国へ流罪となる。文治5年(1189年)には赦免されて帰京するが、その後は任官せず蟄居生活を送った。

平 信季 平 親輔

 保元2年(1157年)、近衛基実政所勾当に任ぜられ、永暦元年(1160年)に六位蔵人となり、翌年左兵衛少尉を兼ねる。応保3年(1163年)、従五位下に叙される。永万2年(1166年)、父・信範が左京権大夫を辞任する代わりに刑部権大輔に任ぜられる。仁安4年(1169年)に従五位上に叙される。承安2年6月12日(1172年)に少納言として初出。承安4年(1174年)に九条兼実の家司に任ぜられ、同年長門権守を兼ねる。
 安元3年(1177年)、正五位下に叙される。『玉葉』のこの年の1月13日条には九条兼実の政所年預であったことが記されている。だが、治承年間に入ると病気がちとなり、治承2年(1178年)の九条良通の春日祭使や翌年の九条良経の元服について兼実から奉行を任されながら病気のためにやむなく他者が代わりを務めている。『玉葉』治承3年6月25日条には兼実が信季に見舞いの使者を派遣したところ、(余命短いとして)嫡男・信宗に家伝の文書を全て譲ったという報告がされたことが記されている。その直後に危篤に陥り、7月1日に没した。
 九条兼実の信頼が厚く、兼実所蔵の平行親の日記を貸し与えられるなど、兼実の側近としての役割を担ったが、兼実が摂関に就任する以前に没した。

 安元3年(1177年)、左近衛将監に任官し後白河院院司となる。寿永2年(1183年)、正月に安徳天皇の六位蔵人に補せられるが、同年7月の平家の都落ちには同行せず、後鳥羽天皇践祚後の9月に従五位下に叙爵した。元暦元年(1184年)、兵部少輔に任ぜられると、文治3年(1187年)従五位上に昇叙され、建久元年(1190年)には兵部少輔を辞する代わりに正五位下に叙せられている。
 後鳥羽院政期に入り、正治2年(1200年)勘解由次官に任ぜられ、建永元年(1206年)土御門天皇の五位蔵人を兼ねる。承元元年(1207年)右少弁に遷ると、承元2年(1208年)左少弁、承元3年(1209年)従四位下・左中弁、承元4年(1210年)従四位上・右大弁、建暦元年(1211年)、左大弁兼蔵人頭と弁官を務めながら昇進する。建暦2年(1212年)正月に正四位下に昇叙され、5月には従三位に叙せられて公卿に列した。
 治部卿を引き続き兼帯したが、建保3年(1215年)12月22日に出家。最終官位は治部卿従三位。近衛基通の執事、近衛家実の家司、厩別当などを務めた。

 

平 仲兼 平 行高

 正嘉元年(1257年)従五位下に叙爵し、正元元年(1259年)民部大輔に任官する。文応2年(1261年)従五位上、弘長3年(1263年)正五位下と昇進したのち、勘解由次官を経て、建治3年(1277年)左衛門権佐(検非違使佐)に任ぜられる。父の時仲が諸大夫(正四位下)止まりであったため、検非違使庁の官人に軽侮されたという。また、この頃、近衛家・鷹司家の家司も務めている。弘安3年(1280年)後宇多天皇の五位蔵人に補せられた。
 弘安8年(1285年)右少弁に遷ると、弘安9年(1286年)正五位上、弘安10年(1287年)従四位下・左少弁、正応元年(1288年)従四位上・権右中弁、正応2年(1289年)正四位上・右大弁と弁官を務めながら順調に昇進する。正応3年(1290年)6月に左大弁に昇任すると、11月には蔵人頭に任ぜられるも弁官を去るが、正応5年(1292年)に従三位・参議に叙任され公卿に列した。公卿昇進に際して人々の非難があったが、伏見天皇の助力によってこれを果たしたという。しかし、同年末には参議を辞任している。
 永仁2年(1294年)正三位に昇叙されると、翌永仁3年(1295年)太宰大弐に任ぜられ、任期中の永仁7年(1299年)従二位に叙せられた。乾元2年(1303年)4月に権中納言に任ぜられるが、5月にはこれを辞している。嘉元3年(1305年)子息の右少弁・平仲高を越えて吉田隆長が左少弁に任ぜられたことを恥じ、仲高と共に出家した。法名は覚浄。
 応長2年(1312年)薨去。享年65。

 永仁7年(1299年)従五位下に叙爵。徳治2年(1307年)右兵衛権佐に任ぜられると、のち衛門権佐(検非違使佐)と武官を歴任し、徳治3年(1308年)従五位上、延慶2年(1309年)正五位下と昇進した。また、正和4年(1315年)、持明院統の花園天皇の五位蔵人に補せられている。
 文保2年(1318年)3月に大覚寺統の後醍醐天皇が即位するも引き続き五位蔵人を務める。同年6月に左大臣・近衛経平が没したために、出仕できなくなり一旦辞職するが、翌元応元年(1319年)9月に五位蔵人に復す。元応2年(1320年)左少弁に任官すると、同年中に従四位下・権右中弁、元応3年(1321年)従四位上・右中弁、元享4年(1324年)正四位下・右大弁と弁官を務めながら順調に昇進した。正中2年(1325年)右大弁を辞任して散位となる。元徳2年(1330年)従三位に叙せられ公卿に列した。
 元弘元年(1331年)、元弘の変により後醍醐天皇が廃され、持明院統の光厳天皇が即位すると、翌元弘2年(1332年)、行高は正三位・左大弁に叙任される。しかし、翌正慶2年(1333年)、後醍醐天皇が復位して建武の新政を開始すると光厳朝の叙任は取り消されたため、行高は従三位に戻され左大弁も止められた。
 建武3年/延元元年(1336年)5月の建武の乱のさなかに出家した。