花山源氏

G902:業資王  冷泉天皇 ―(花山天皇)― 源 延信 ― 業資王 ― 白川忠富王 G903:白川忠富王

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白川雅朝王 白川雅喬王

 安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公卿。花山源氏白川伯王家の当主。初名は雅英。白川雅朝王とも表記する。内大臣・中院通為の次男で神祇伯雅業王の養子。
 永禄12年(1569年)神祇伯に就任。天正13年(1585年)1月6日従三位に叙せられる。その後、兵部卿,民部卿などを兼帯した。慶長10年(1605年)、息子の顕成王に神祇伯職を譲ったが、その顕成王が死去したため再任した。その後、養子の雅陳王に神祇伯職を譲った。最終官位は正二位参議だった。寛永8年(1631年)1月23日、77歳で薨去。

 江戸時代前期の公卿・神職・歌人。花山源氏白川伯王家の当主。白川雅喬王とも表記する。一字名は代。神祇伯・参議雅陳王の子。兄弟に宥賀(積善院大僧正・聖護院院家),品川雅直(加賀藩士になり品川左門と名乗る),大宮実勝室らがいた。
 寛永19年(1642年)神祇伯となる。承応3年(1654年)12月21日に従三位に叙せられる。その後、正二位まで昇進した。延宝7年(1679年)息子の雅光王に神祇伯職を譲った。白川伯王家の伝承を整理して『家説略記』を纏めた。また和歌にも秀で、『源氏物語歌集』を編集した。元禄元年(1688年)10月15日、69歳で薨去。

品川雅直 白川資訓

 江戸時代に加賀藩で武家として重臣を務めた一族である。江戸時代初期、品川雅直は加賀藩3代藩主・前田利常に仕えて重用され、利常が没すると殉死を遂げた。その子孫は代々加賀藩に仕え、約70家ある人持組(重臣)のひとつに位置づけられて、3000石を給された。


 旧名は資訓王。嘉永2年3月29日(1849年4月21日)に元服し昇殿を許される。嘉永4年8月14日(1851年9月9日)神祇伯に就任。安政元年(1854年)、内裏焼失の際に神鏡を奉遷し孝明天皇より賞された。同年12月18日(1855年2月4日)侍従を兼ね、安政4年5月15日(1857年6月6日)右近衛権少将を兼ねた。元治元年8月29日(1864年9月29日)右近衛権中将に進んだ。
 慶応4年1月17日(1868年2月10日)神祇事務科が設けられ神祇事務総督に就任。同年2月20日(1868年3月13日)参与、神祇事務局補となる。さらに議定,神祇事務局督を務めた。明治2年6月1日(1869年7月9日)神祇制度の改変により神祇伯が廃止され、伯王の称号も自然消滅した。同年7月8日(8月15日)神祇大副に就任。以後、神祇官出仕,神祇大掌典,大掌典,式部寮七等出仕兼大掌典,式部寮御用掛などを歴任し宮中祭祀に携わり、1873年11月3日、式部寮御用掛を免じられ退官した。1884年7月8日、子爵を叙爵した。